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関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。


小早川秀秋は最後の最後まで悩み続けたと言う。西軍に味方すべきか、それとも東軍に寝返るか。当初は黒田長政に対し、東軍に味方するようなことを話していた。だがそれをなかなか実行に移そうとしない。それどころか関ヶ原の前哨戦として行われた伏見城の戦いでは、西軍の副将として東軍伏見城攻めに参戦している。

黒田長政は解せなかった。東軍に味方をするようなことを言っておきながら、小早川秀秋は未だ西軍として東軍に攻撃を仕掛けている。本当に家康に味方するつもりがあるのか、長政は秀秋を問い質そうとした。だが秀秋はなかなか態度をはっきりさせなかった。本来であれば豊臣恩顧の大名として西軍で戦うのが筋だ。しかし東軍に味方する大きな理由もあったのである。

その前に秀秋は、唐入り(慶長の役)では戦目付の報告により秀吉の怒りを買い減俸させれていた。その戦目付が三成派であり、秀秋は三成に対してはそれほど良い感情は持っていなかったと伝えられている。しかしそれでも一時は西軍として戦っているのだから、黒田長政や福島正則、加藤清正らに比べればそれほど三成のことを嫌ってはいなかったのかもしれない。

秀秋は迷いに迷った。ただ、東軍に味方すると言いながら西軍に付かなければならない事情もあった。関ヶ原の戦いを前にして大坂城は西軍の大軍で溢れており、仮に秀秋が早い段階で東軍に寝返ったとしたら、あっという間に西軍に討たれてしまう危険があったのだ。そのために最後の最後まで態度をはっきりさせられなかった、と考えることもできる。

だが黒田長政は悠長に待っていることなどできなかった。関ヶ原の戦いが開戦される半月ほど前の8月28日、黒田長政は浅野幸長(よしなが)と連名で小早川秀秋に書状を送っている。その内容は、浅野幸長の母親が北政所の妹であるため、秀秋にも東軍に味方して欲しい、と求めるものだった。ではなぜ長政はこのような書状を送ったのか?

実は小早川秀秋は豊臣秀吉の養子であり、幼い頃は北政所に育てられていた。つまり北政所は秀秋にとって養母であり、母親同然の存在だったのだ。黒田長政は秀秋よりも14歳上なのだが、実は長政にとっても北政所は母親同然なのである。

幼少期にまだ松寿丸と名乗っていた頃、長政は人質として織田家に送られていた。そしてその人質の面倒を見ていたのが羽柴秀吉の妻寧々、つまり若き日の北政所だったのである。子を産めなかった北政所は、長政のことを我が子同然に可愛がった。人質として扱うことなど決してなく、父官兵衛の裏切りが疑われた際に長政の処刑が信長から命じられると、最も悲しんだのが北政所だった。そして竹中半兵衛により長政の命が救われ最も喜んだのも北政所だった。

その北政所は淀殿(茶々)と反りが合わず、秀吉死後は自然と家康側に傾倒していた。長政は、秀秋にとっても母同然である北政所が東軍にいるのだから、秀秋も当然東軍に味方すべきであると、と説得を繰り返したのだった。この長政の説得もあり、秀秋は関ヶ原の戦い当日になりようやく西軍を離脱することになる。

福島正則の西軍への寝返りを阻止したのも、西軍総大将毛利輝元に出撃させなかったのも、小早川秀秋を東軍に寝返らせたのも、すべては黒田長政の調略によってのものだった。黒田長政は歴史上、父黒田官兵衛ほど目立つ存在ではない。実際黒田官兵衛を特集した書籍、雑誌ならいくらでもあるが、黒田長政を特集したものはほとんど存在しない。

だが関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたというこの功績は、父官兵衛のかつての活躍を凌ぐ働きだったとも言える。なお幼馴染である竹中半兵衛の子、重門とは関ヶ原の戦いでは隣り合って布陣したと伝えられている。
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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。
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毛利輝元と石田三成は盟友で、お互い助け合った場面が多々ある。この縁があり関ヶ原の戦いでは三成の要請に応える形で、輝元は西軍の総大将に就いている。だが輝元は関ヶ原開戦前に三成を裏切り、東軍に内通してしまった。兵力の分散など、毛利勢が関ヶ原でほとんど打って出なかった理由は他にもあるわけだが、一番の理由は東軍への内通だったようだ。

関ヶ原前の毛利家は、決して一枚岩とは言えない状況だった。まず小早川隆景を失ったことにより、毛利家は豊臣政権では力を失いつつあった。その上御家騒動を家康に干渉されるなどのこともあり、毛利家内は毛利輝元と吉川広家との派閥に二分されていた。もっと言えば政略を担当していた安国寺恵瓊派と、軍事面を担当していた吉川広家派とで関係が上手くいっていなかった。隆景が死んだことによりこの対立がより鮮明化されてしまい、関ヶ原の時点では毛利はまったく一枚岩とはなっていなかったのだ。

輝元の祖父、毛利元就はこうなることを予見していたからこそ「三矢の教え」を説いたのだろう。だが元就の願いも空しく、毛利家の分裂は日ごとに増してしまい、関ヶ原の時点では修復し難い状況にまで陥っていた。中でも広家は、恵瓊に対し良い感情をまったく持っていなかったと言う。

輝元は三成とも良好な関係を築いていたが、実は家康とも友好関係を結んでいた。そのため輝元が西軍の総大将になったことを聞くと、家康は非常に驚いたと言う。しかしこれを吉川広家が、すべては安国寺恵瓊の考えだと家康に弁明してしまう。つまり輝元は何も知らず、恵瓊の言う通りにしていたら西軍の総大将にされてしまった、というわけだ。

もちろん事実は違う。輝元と三成の関係あってこその総大将への就任であり、家康の毛利家に対する干渉への対抗心もあったようだ。だが最終的に輝元が優先したのは領地安堵だった。

関ヶ原の戦いは、総勢だけを見れば西軍も東軍もほぼ互角だった。この互角の戦力が真っ向から戦えば、どちらに勝利が傾くかはまったくわからない。だが毛利輝元が東軍として戦わないまでも、西軍として出陣さえしなければ、西軍には勝ち目はほとんどない。さらには小早川秀秋の東軍への内通も明らかになっていたため、輝元と秀秋が東軍に味方をすれば、ほとんど100%東軍が勝利するという状況だった。

そこに家康は東軍が勝利した暁には、現在の毛利の領地を安堵するという密約を輝元と結んだ。これにより関ヶ原の戦いが開戦する前日までに、西軍の総大将が事実上西軍から離脱する形となってしまった。この状況ではやはり西軍に勝ち目などまったくなく、開戦後は2時間も経たないうちに西軍は総崩れとなってしまった。

もう一度繰り返すが、輝元が西軍の総大将に就いたのは恵瓊の策略ではない。三成への友情と、家康への対抗心から輝元自らが総大将に就くことを了承したのだ。決して恵瓊が騙したわけではない。家康は広家の弁明を聞いたからこそ毛利の領地安堵を約束したわけだが、しかし関ヶ原の戦いが終わると、輝元が自らの意思で西軍の総大将に就いたという証拠が出てきてしまった。

これにより開戦前は120万石だった毛利家が、関ヶ原の戦いの後は30万石まで減封されてしまう。版図拡大に情熱を注いでいた輝元としては、立ち直れないほどの衝撃だったのだろう。減封後は間も無く隠居し一線から退いてしまった。ちなみにこの時、毛利家の取り潰しという話もあったようだが、吉川広家の尽力もありそれは回避され、30万石への減封で収まったのだと言われている。

だが冷静に考えれば、もし吉川広家が輝元に完全に味方し関ヶ原の戦いで奮闘していれば、西軍が勝利する可能性も決して低くはなかった。そして西軍が勝っていれば120万石以上を手にできた可能性もある。安国寺恵瓊にしても、そのような考えがあったからこそ西軍への参陣を説いていたのだろう。

しかし恵瓊を毛嫌いする広家の対応もあり、毛利家は結局関ヶ原では戦うこと自体を避けてしまった。最終的には周防・長門の30万石は維持できたものの、実はこの30万石は当初、家康は吉川広家に与えると言っていた。だが広家がそれを拒み、30万石は毛利家に与えて欲しいと懇願し、毛利家の改易処分が免れている。

もしかすると広家には、自分の対応が毛利家を取り潰してしまうところだったという罪悪感があったのかもしれない。だからこそ自らに与えられた30万石を、そっくりそのまま毛利家に譲ったのではないだろうか。今となっては真実は定かではないが、広家の一連の行動からは、そのようなことも想像できるのではないだろうか。
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慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いで、西軍最大の敗因は石田三成が籠城戦を選ばず、大垣城を出て野戦を選んでしまったことだと言われている。物語などではよく、野戦が得意な家康位に対し野戦を挑んだ三成を戦下手だと評しているが、家康が野戦を得意としていることは三成もよく知っていたはずだ。それなのになぜ三成は野戦を選んだのだろうか?!

一般的に考えれば西軍は大垣城を出るべきではなかった。東軍は大軍勢で美濃まで進行してきているため、兵站の確保が難しい。長期戦になるほど兵糧の消費も多くなり、戦が長引くほど籠城側に有利な状況になっていく。特に関ヶ原の戦いでは遠方から駆け付けた軍勢も多かったため、兵糧に関してはかなりの不安要素となっていた。

一方大垣城に入っていたのは三成自身であったため、兵糧など兵站の準備は得意分野であり、備えも万全だったはずだ。籠城しようと思えば1年以上は戦える準備を整えていたはずだ。そして籠城して堪えている間に東軍の士気が下がり、そこを突く形を取れば大きな勝機も見えて来たはずだ。それに関しては三成自身もそう考えていたのだろう。

しかし現実問題として、籠城するわけにはいかない状況に陥っていた。それは小早川秀秋の西軍離脱だ。関ヶ原の戦いが開戦する何日か前には、小早川秀秋の裏切りは疑いようもないものになっていた。その小早川秀秋が着陣したのが松尾山という、大垣城の西にある場所だった。

そして東側からは家康が西上してきている。つまり小早川秀秋の裏切りがほとんど確定した時点で、大垣城は小早川勢と徳川勢に挟撃されてしまう状況に陥ってしまったのだ。小早川勢が東軍に寝返ったとなれば、大垣城は完全に包囲される形になる。つまりは小田原攻めと同じ状況だ。例え堅固な城だったとしても、完全に包囲されて四方から攻められればひとたまりもない。

小早川秀秋の軍勢は、大垣城を包囲されないようにするため松尾山に配陣させたようなものだった。だがその小早川秀秋が東軍に内通してしまったため、大垣城は一気に窮地に陥ってしまう。これにより三成は、野戦を選ばざるをえない状況になったしまった。決して好き好んで野戦を選んだわけではない。もはや野戦を選ぶしかない状況になっていたのだ。

なおこの時東軍に寝返ったのは小早川秀秋だけではない。大谷吉継の軍勢に加わっていた脇坂安治、小川祐忠も藤堂高虎の調略により東軍に内通していた。9月15日の午前10時頃に開戦されると脇坂・小川が寝返り、その横からは小早川勢が突いてくる。これではさすがの大谷吉継でも太刀打ちはできない。開戦から間も無く、吉継は壮絶な討ち死にを果たしてしまう。

これにより西軍は総崩れになり、立て直しが不可能な状況になってしまった。関ヶ原の戦いは実際には2時間で終わってしまったと言う。江戸時代に書かれた軍記物では当初は西軍が善戦していたと書かれたものもあるが、事実はそうではない。軍記物に書かれている内容のほとんどは、家康の勝利を劇的に見せるための脚色だ。

事実は善戦するどころか、開戦直後に西軍は総崩れとなってしまったのだ。そしてさらに裏切り者として名を挙げるならば、毛利輝元もまた、開戦前日までに東軍に内通していたと言う。つまり西軍の総大将が東軍に内通したということだ。三成自身、まさか盟友であり西軍総大将の輝元に裏切られるとは夢にも思わなかっただろう。

関ヶ原の戦いは、調略という前哨戦ですべての勝敗が決してしまった。小早川秀秋、毛利輝元の調略に成功した徳川家康に対し、福島正則の調略に失敗してしまった石田三成。

石田三成は調略にあたり、とにかく秀吉に対する義を説いて福島正則の説得を試みた。一方の家康方は黒田長政が小早川秀秋の調略を担当したのだが、この時長政は幾度も嘘の情報を秀秋に対し送っている。やはり戦国の世に於いては義だけで生き抜くことはできないということなのだろう。だが義将石田三成が現代の通説のように悪人に仕立てられてしまったことは、どうしても納得し難いものだ。

だがそれができる人間が戦国の世では強い。羽柴秀吉は明智光秀を悪人に仕立て上げることにより、徳川家康は石田三成を悪人に仕立て上げることにより天下を奪った。そう考えると西軍の敗因は、石田三成の人柄の良さが招いてしまったと言うこともできるのかもしれない。
ishida.gif悪役を立てなければドラマが引き締まらないためだろうか、テレビドラマに登場する石田三成という人物は、大抵が嫌われ役という設定になっている。一昨年放送されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では顕著で、あのドラマを見て石田三成を誤解したり、嫌いになったという人は多いのではないだろうか。

武田鉄矢さん率いる海援隊が歌う「二流の人」という曲にも「石田三成 愚か者」という歌詞が出てくる。このように石田三成という人物は誤解されていることが多い。だが歴史好きの間では石田三成こそ義将であると高く評価されている。では何故ここまで酷く誤解されることになってしまったのだろうか?

石田三成は豊臣政権に於ける奉行衆のひとりで、治部少(じぶのしょう)という地位にあった。治部少とは簡単に言えば戸籍や婚姻などに関するお役所仕事をしたり、外国からやってきた使臣を持て成す役割を担っている。いわゆるお役人だ。

豊臣秀吉の元で治部少として活躍する三成ではあったが、時として秀吉は悪政を歩んでしまうことや、道を誤ることもあった。そんな時でも三成は文句一つ言わず、黙々と執行役を務めた。なぜ文句ひとつ言わなかったかと言えば、その文句は秀吉批判に繋がってしまい、豊臣政権内で秀吉批判をしてしまえば、政権への信頼が揺らいでしまうためだ。

三成はとにかく豊臣政権を安定させるために死力を尽くした人物だ。秀吉のミスはすべて三成がカバーしていく。そのためいつしか秀吉のミスが三成のミスへと挿げ替えられ、豊臣政権内で三成は集中砲火を浴びるようになってしまう。それでも三成は決して秀吉に責任を返すことはしなかった。自分が我慢していれば主人秀吉への家臣団の信頼が揺らぐことはない、そう信じ、秀吉の過ちをすべて自ら黙って被っていったのだ。

毛利輝元を大将とする西軍と、徳川家康を大将とした東軍が戦った関ヶ原の戦いでは、三成は東軍同等の10万という兵を率いたにもかかわらず、開戦後あっという間に敗れてしまった。西軍からすれば、籠城していれば徳川に勝てる戦だった。なぜなら徳川軍の多くが遠征隊であり、兵糧に不安を抱えていたからだ。だが三成は家康の陽動作戦に引っかかってしまい、野戦を選択してしまう。野戦は家康が最も得意とする戦いだ。

関ヶ原の戦いに於ける西軍大将は毛利輝元だったわけだが、しかし輝元は大阪城に入っただけで自ら出陣することはなかった。もし戦経験豊富な輝元が出陣していれば、三成が大垣城を出て野戦を選ぶというミスを犯すこともなかったのだろう。だが戦経験に乏しい三成は勢力が互角ならば自軍に分があると踏んだのか、大垣城を出て野戦を選んでしまった。

これは三成のミスだというのが定説ではあるが、しかし疑問点が残ることも事実だ。もし家康が大垣城を横目に進軍していったのであれば、西軍は東軍の横腹を突く攻撃を仕掛けたはずだ。だがそうはせず、対陣する形を選択している。これは果たして何を意味するのだろうか。

一説では家康が大垣城を水攻めしたことにより、三成と主力部隊である小早川秀秋らの連絡が絶たれそうになり、それを防ぐためには城を出るしかなかったという見方もあるようだ。

だがいずれにしても小早川秀秋は西軍を裏切ってしまった。これはやはり三成が人心掌握術に長けていなかったということなのだろう。逆に人心掌握を得意とした家康の口車に乗り、秀秋は東軍に寝返ってしまった。これにより西軍は完全に態勢を崩してしまい、総崩れとなってしまう。

腹心島左近の命懸けの奮戦もあり、三成は何とか戦場を脱出することができた。しかしその後すぐに捕縛されてしまい、家康の命により六条河原で打ち首とされてしまった。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」と読み、享年41歳だった。

三成は決して私利私欲のために敵を増やしたわけではない。三成はとにかく秀吉への恩顧に応えるため、豊臣政権を守るために奮闘し続けたのだ。そして秀吉が犯したミスの責任をすべて負い続けた。それにより誤解されることも多く、江戸時代になると三成の子孫たちは三成の墓を埋めて隠し、ひっそりと生活していたという。それほどまでに誤解がさらなる誤解を呼んでいった三成の生涯だったというわけだ。

戦国時代記では今後、石田三成の誤解を解くための巻も少しずつ増やしていきたいと考えている。