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NHK大河ドラマで豊臣秀次は「キリシタンだったのではないか?」と思えるような演出がされている。高野山で切腹をする直前、秀次が聖母マリアの絵画をじっと見つめるシーンがあるためだ。この絵画は秀次の娘が父秀次に贈ったように大河ドラマでは描かれているが、秀次の娘である隆清院(大河ドラマではたか)もキリシタンだったかどうかは定かではない。


恐らく大河ドラマでこれから登場するキリシタン細川ガラシャへの布石として、秀次と隆清院をキリシタンだったように演出したのではないだろうか。しかし史実では秀次も隆清院も仏門で弔われているため、キリシタンだったという資料は存在していないと思われる。そもそもキリスト教では自殺は禁忌されているため、切腹をした時点で秀次はキリシタンではなかったということにもなる。

隆清院は確かに真田信繁の側室となり、御田姫と三男幸信を生んだ。そして亡くなった後は秋田県由利本荘市にある妙慶寺で弔われている。隆清院の生まれた年や亡くなった年は不明となっているが、しかし寺で弔われているということは、やはりキリシタンだった可能性は低いのではないだろうか。

豊臣秀吉や徳川家康の時代にはキリシタン追放令が出されたわけだが、それでもキリシタン大名や姫たちは、キリシタンであれば最後までそれを全うした人物が多い。例えば高山右近はそれによってフィリピンのマニラに追放されている。当時のキリシタンの特性として、キリシタンであることを誇りに思っている人物が多かった。

もちろん隠れキリシタンの存在もあったわけだが、しかし秀次や隆清院にまつわる資料にキリスト教関連のものは見当たらない。ふたりの生い立ちを考えても、キリシタン追放令を出した豊臣秀吉の甥である関白秀次がキリスト教でいることはできないだろうし、秀次自刃後はすべて処刑された秀次の妻や子どもたちの中で、数少ない生き残りとなった隆清院が、さらに目をつけられるようなキリシタンであったとも考えにくい。

そうなると大河ドラマではやはり、細川ガラシャへの布石としての演出だったのかもしれないと思えるようになる。細川ガラシャも有名なキリシタン姫であるわけだが、果たしてドラマの中では今後ガラシャと隆清院が絡む場面が登場するのだろうか。

大河ドラマは小説の部類に入れるべきだろう。ドラマで描かれている内容が必ずしも史実と一致しているわけではない。脚色されていたり、脚本家の希望が盛り込まれているケースも多い。やはりテレビドラマとして、史実を淡々と描いているだけでは視聴率を上げることができないためだろう。

脚色が悪いとは思わないが、しかし本サイトは史実にこだわっているため、秀次と隆清院がキリシタンだったのかを少しだけ検証してみた。秀次は複数の寺に寄進しているし、自刃後は自らが寄進した寺で戒名を与えられている。隆清院も妙慶寺に位牌が置かれている。やはり史実ではふたりとも仏教徒だったと考えるのが自然ではないだろうか。
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豊臣秀次はなぜ28歳という若さで切腹させられてしまったのだろうか。一般的には謀反の嫌疑がかけられての高野山への追放と切腹だったと伝えられている。だが謀反という線は近年の史家の研究によりほとんどないことがわかってきている。実際に謀反の疑いにより切腹させられたのだとしても、これを冤罪と断言する史家も少なくない。


豊臣秀吉は通常、誰かを攻めたり処分する際にはその理由を明確に書状に示している。だが豊臣秀次の時だけは「不届」としか書いていなかったらしい。「不届き」を辞書で調べると「道理や法に従わないこと」とある。つまり秀次は謀反を起こしたのではなく、何らかの理由によって秀吉に逆らったのである。そしてその理由は千利休と同じであると筆者は考えている。

千利休切腹の真実は別巻にてご確認いただくとして、秀次もあることで秀吉に対し反抗したと考えられている。そのあることとは唐入りだ。秀吉はすでに文禄元年(1592年)に最初の唐入りを実行している。この時は兵を疲弊させただけでほとんど何の利も大義もなかった。そのため秀次はさらなる唐入りを太閤秀吉に、関白としてやめさせようとしたと考えられる。

事実、唐入り反対派の武将たちが関白秀次を中心に集まり始めていたとも伝えられている。唐入りに対して秀吉の決断に異を唱えた、と考えれば上述した「不届」という表現もマッチする。

逆に本当に謀反が切腹の原因だったとすれば、不自然なことも多い。まず秀次の軍勢では秀吉の軍勢にはまったく歯が立たないし、そもそも秀次の重臣たちがまったく軍を動かしていないのである。本当に謀反だとすれば、重臣たちはそれなりに兵を動かすはずだ。それに秀次の切腹後も、秀次の家臣たちはまったく罪を咎められていない。

三条河原で処刑されたのは妻や側女、子どもたちだけであり、家臣たちは殉死した者はいたものの、処刑された者はいなかったようだ。このような事実を追うと、やはり謀反の線はなかったのだろうと思う。

秀次が切腹させられた頃、秀吉はすでに次の唐入りを画策していたと考えられる。つまり慶長の役だ。秀吉としては今度こそは唐入りを実のあるものにしたいという強い思いがあった。だがそれに対し秀次が異を唱え、秀吉は激昂したのだろう。それでも秀次は唐入りに対し反対姿勢を貫いたため、秀吉はもう「不届」として秀次を処分するしかなくなったのである。秀次の師である千利休同様に。

当時のことを日記に残している何人かの公家は、この頃の秀吉と秀次の関係を「不和」と書き残してはいるが、その不和の理由は誰も書いていない。また『信長公記』などを記した太田牛一にしてもふたりの不和の理由を明確にしていない。本当に知らなかったのかもしれないが、しかし仮に「唐入りに反対したため」と書いてしまったとすれば、書いた本人も秀吉からの処罰を受ける可能性もあるため、理由を知ってはいたが書けなかった、という事情もあるのではないだろうか。

仮に関白秀次が唐入りに対し反対しているということが世間に知れ渡ってしまえば、その唐入りを実行しようとしている秀吉に対する風当たりが強くなってしまう。そしてそうなっては再び唐入りを実行に移すことも難しくなり、将来クーデターをを起こしかねない有力武将たちを国内から朝鮮・明国へと体良く追い出すこともできなくなってしまう。

秀吉としてはとにかく唐入りを成功させ、朝鮮や明国に領地を拡大させたいと考えていた。そのためにも唐入り反対派の中心的存在となっていた秀次の存在が目障りだったのである。だが唐入り反対を理由に秀次を処分しては、上述の通り秀吉の唐入りそのものへの風当たりがさらに強くなってしまう。しかも秀次は関白であり、その影響力は絶大だ。

だからこそ秀吉は秀次に対し謀反の嫌疑を立て、まず高野山へと追放した。ちなみに高野山への追放令の書状は前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の連名で送られている。秀次の切腹には三成黒幕説もあるが、それは別巻にて真実ではないことを説明している。

秀吉は、秀次を高野山に追放することにより、反論できない状況に追い込んだ。切腹に関しては秀吉が命じたという説もあるが、実はそうではなく「冤罪を着せられるのなら自ら腹を切る」と、秀次自ら死を選んだ可能性が近年史家によって指摘されている。その理由は秀吉がこの時高野山に送った秀次の処遇を指示した書状に、秀次の切腹に関する記述がまったくないためだ。

どのようなことが書かれていたかと言えば、十数名の世話人は置いていいこと、刀の類は携帯させないこと、家族との面会は禁止させること、ということを主に伝えている。このような書状を秀吉が高野山に送った事実を踏まえれば、秀吉は切腹を命じていなかったと考えるのが自然ではないだろうか。

ちなみにこの書状を高野山に届けたのは福島正則、福原長堯(石田三成の娘婿)、池田秀雄の3名だったようだ。秀次はもしかしたらこの3人が、首実検のために高野山に派遣されたと誤解したのかもしれない。もしそうだとすれば、あまりにも悲劇だったとしか言いようがない。

豊臣秀次はこのような悲運の下、わずか28年という人生を自ら終えてしまったのである。文武両道に勤勉だった秀次が豊臣家を継いでいればと考えると、本当に残念で仕方ないという思いで一杯になってしまう。
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NHK大河ドラマ『真田丸』でも頻繁に登場している豊臣秀次は、幼い頃より死ぬまで叔父秀吉に翻弄される人生を送り続けた。こうまでも自分の好きなように生きられなかった戦国武将も珍しいのではないだろうか。武芸や習い事にも真面目で非常に有能な武将だったのだが、最後は殺生関白と呼ばれるようになってしまい、その有能さを活かすことをできずに28歳という若さで秀吉に切腹を命じられてしまった。


豊臣秀次という人物は永禄11年(1568年)に三好吉房と秀吉の姉である智(とも)との間に生まれた。生年は詳細に記録されていないようだが、後年に残された書状などから逆算をすると、永禄11年生まれが最も有力であるようだ。

ちなみに父親である三好吉房という人物は何度も改姓をしており、最初は木下弥助、その後長尾を名乗り、三好吉房、三好昌之と名を変え、秀次が秀吉の養子となった後は羽柴を名乗っている。

豊臣秀次は28年の生涯で三度も養子に出されている。最初は宮部家だった。宮部とは、浅井長政の臣下であった宮部継潤のことだ。姉川の戦いに至る前、羽柴秀吉は浅井家臣下の調略に当たっていた。その調略をスムーズに進めるための駒として、秀吉は甥である秀次を宮部継潤の猶子(相続権を持たない養子)とした。

姉川の戦いは元亀元年(1570年)であるため、秀次はまだ2歳ということになる。ちなみに秀次の幼名などは記録に残されておらず、最初に名前が出てくるのは次に養子に出された先での名前、三好孫七郎信吉としてとなる。

宮部継潤と秀次の養子関係は、遅くとも天正9年(1581年)、秀次が13歳の頃には解消されていたようだ。その理由は宮部継潤が秀吉に厚遇されており、養子関係を結ばずとも両者の関係が良好であったためだ。

その後、四国の長曾我部元親と織田信長との関係が悪化してくると、秀吉は四国攻めのための調略に当たるようになる。その時にしっかりと味方に引き入れておきたかった存在が三好康長だった。三好康長とは三好長慶の叔父に当たる人物で、阿波国の有力者だった。長曾我部を攻めるにあたり、阿波国の三好康長をしっかりと懐柔しておきたかったのである。

その調略の道具として、再び秀次は利用された。秀次がまだ13〜14歳の頃になるわけだが、今度は三好家に養子に出され、三好孫七郎信吉と名乗るようになった。一説では天正7年(1579年)の段階で三好家の養子になっていたともされているが、この頃の三好康長はすでに信長に降っており、織田家と長曾我部家の対立もなかったため、秀次を三好家の養子に出す理由がない。そのため近年の史家の研究では、実際に養子となったのは織田家と長曾我部家の対立が鮮明になった天正9年秋頃という見方が有力とされている。

だが両家の対立も、本能寺の変によって回避されることになり、秀次が三好を名乗った期間も短く終わった。そして天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの後、16歳になると羽柴孫七郎信吉と名乗り、その直後に羽柴孫七郎秀次と名乗るようになっている。こうしてようやく秀次は羽柴一門に戻ってきたのである。

16歳までの秀次はこのように、秀吉の都合によって他家へ養子に出される日々を過ごしていた。こうして見ていくと秀吉は秀次に対しそれほど愛情は持っていなかったのだろう。確かに戦国の世では養子に出されることは珍しいことではないが、しかし28年の生涯で三度も養子になることは珍しい。三度目はもちろん実子を幼くして亡くした秀吉の養子としてだ。

秀吉が甥っ子に対してそれほど愛情を持っていなかったからこそ、戦略上の都合で簡単に養子に出しては戻すということを繰り返したのだろう。そしてだからこそ秀吉は、豊臣秀次に対しあれほど惨い最期を遂げさせた。文禄4年(1595年)7月15日に秀次を自害させると、8月2日には京の三条河原で秀次の妻子を全員処刑してしまった。

この秀次の死が、豊臣家を秀吉一代で衰退させてしまった最大の要因だとされている。もし秀次を自害させていなければ秀吉死後、幼い秀頼が家督を継ぐこともなく、立派な武将に成長していた秀次が豊臣家を継ぐことにより、徳川家康に政権を奪われる隙も与えずに済んだと考えられている。
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豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度に渡り唐入りを実施したのか?唐入り賛成派の武将というのは実はほとんどいなかった。大それた反論はしなかったものの石田三成でさえも唐入りには反対しており、実際に反乱の火種となりかねなかった豊臣秀次や千利休に至っては切腹させられている。秀吉はなぜ秀次や利休を切腹させてまで唐入りを目指したのだろうか。


実は唐入り構想の原案は秀吉のものではなかった。最初に唐入りを目指すと口にしたのは織田信長であり、それを嫌った明智光秀により信長は討たれてしまった。つまり秀吉は、信長が考えていたことをそのまま自分のアイデアとして取り入れてしまったということになる。

信長は日の本を統一した後は、有力大名たちには刈り取った朝鮮、民国の広大な土地を与え、国内の主要部は織田一門に任せるという構想を練っていた。本能寺の変直前、織田家で最も力を持っていた家臣が明智光秀であり、まさに光秀は朝鮮、民国に移封させられる最有力とされていた。

秀吉も同じことを考えていた。朝鮮、民国に攻め入り領地化し、力を持ち過ぎた大名たちを国内から追い出そうと考えていたのだ。そしてさらには領土を広げることにより、秀吉は大王になろうとしていたとも言われている。一説では実子捨(すて)の死の悲しみを癒すべく唐入りしたとも言われているが、一国を治める太閤(前関白の意)がそのような理由で戦を仕掛けるはずはない。

秀吉も信長同様、有力大名たちを国内から追い出すような形にし、国内は豊臣一門を中心に政権運営していくことを目指したのだった。そしてこれが実現されれば秀吉亡き後、有力大名に後継が狙われる心配もなくなる。秀吉としては先の短くなっていた命、後継が狙われる心配を排除した上で命を全うしたかったようだ。

だからこそ唐入りに意を唱え、クーデターを起こす可能性のあった豊臣秀次や千利休を、下手な言い掛かりをつけて切腹させてしまっている。実際多数の武将たちが秀次や利休を頼り、秀吉に唐入りを中止させるように頼んでいたようだ。秀吉としては唐入り反対派をまとめる役割を果たしていた秀次や利休が邪魔で仕方なかったというわけだ。

武器商人であった千利休としては、実際のところは唐入りという大掛かりな戦をしてくれた方が莫大な利益を得ることができた。それでも利休が唐入りに反対したということは、それだけ国益に繋がらない大義なき戦だと唐入りは見られていたのだろう。そして実際二度に渡り行なわれた唐入りは、大義も成果も何もない戦で、ただただ大名たちを疲弊させただけで終わってしまった。

だが秀吉からすれば、力を持ち過ぎた大名の体力を失わせただけでも、唐入りは成功に値するものだったのかもしれない。だが立派な武将に成長していた豊臣秀次を切腹させてしまったことで、豊臣政権はその後大きく揺らぐことになってしまう。秀次は素行が悪かったとも伝えられているが、しかしそれは切腹を命じた際のでっち上げだと考えられている。実際の秀次は武士としての習い事も真面目に取り組み、勤勉であり、教養にも優れた人物だった。

詳しくはこちらの巻に記しているが、秀次は千利休の愛弟子でもあった。そのため唐入りを阻止するために二人が結託していた可能性も非常に高い。だからこそこのふたりが揃って見せしめとして切腹させられたと考えるのが自然ではないだろうか。

日の本全体としては決して成功とは言えない結果に終わった唐入りだが、しかし秀吉個人からすれば上述の通り唐入りは決して失敗ではなかった。だがその唐入りをめぐっての秀次の切腹などにより、その後豊臣政権が行き行かなくなってしまった。もし秀次に切腹を命じていなければ幼い秀頼が家督を継ぐ状況にもならず、豊臣政権も秀吉一代では終わっていなかったかもしれない。

だが秀次を失ってしまったことにより豊臣政権は大きく揺らぎ、秀吉の死後はあっさりと徳川家康に政権を乗っ取られてしまった。そういう意味に於いては秀吉の唐入りは、特に秀吉の死後は豊臣家に大きな爪痕を残す形となってしまった。

天正19年(1591年) 千利休切腹
文禄元年(1592年)  文禄の役
文禄4年(1595年)  豊臣秀次切腹
慶長2年(1597年)  慶長の役
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豊臣秀次は実は、叔父秀吉の唐入りに対し反対派だった。秀吉は日本国内を平定すると朝鮮出兵を行うわけだが、秀次は朝鮮出兵を反対し続けていたのだ。そのため石田三成や黒田官兵衛らが朝鮮への渡海を説得しようとしても、結局朝鮮へ出陣していくことを避け続けた。そして日夜妾たちと遊興に更けっていたという噂も流れ、それが秀次愚将説へと繋がっている。

さて、朝鮮出兵反対派の中心として多くの武将たちの相談を受けていた人物がいる。前編にも記した千利休だ。利休は朝鮮出兵に関し反対派武将たちを取りまとめていると見なされ秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられている。秀吉は豊臣家の将来を安泰にするため、何としても有力大名の多くを朝鮮に移封させたいと考えていた。だからこそ唐入り反対派が有力になってしまっては困るのだ。

日本国内は豊臣一族で支配し、武功を挙げた有力武将たちには明に広大な土地を与え、日本国内で謀反を起こせない状況にする。それが秀吉が目指したものだった。それを実現させるためには唐入り反対派にいてもらっては困るのだ。そのため秀吉は「茶器を法外な値段で売り私腹を肥やしている」という罪により利休に切腹を命じた。当然だが切腹を命じられるほどの罪ではない。真実は唐入り反対派の口を閉じさせるための切腹命令だったのだ。

利休には台子(だいす)七人衆という、茶の秘伝を秀吉から伝授することを許された七人の弟子がいた。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、木村重茲、芝山宗綱、瀬田正忠、そして豊臣秀次だ。つまり秀次は利休の愛弟子であり、反唐入りの同士でもあったのだ。秀吉は利休の意思を最も強く継いでいるのが秀次であり、今後秀次を中心にし反唐入り同盟が組まれることを最も恐れていた。

秀次は逆心を持っていたわけではない。豊臣の未来、そして日本の未来を憂いて唐入りに反対の意を示していただけなのだ。実は唐入りに反対していたのは石田三成も同様だった。三成もまた軍事的に明へ侵攻するのには反対で、逆に明との貿易を盛んにしていくことで日本を豊かにしていきたいと考えていたようだ。

つまり秀次は利休同様、唐入りに反対の姿勢を示したために秀吉の怒りを買ってしまったのだ。秀吉からすれば「豊臣の未来を考えての唐入りなのに、なぜ豊臣である秀次がそれをわかろうとしないのだ」というジレンマもあっただろう。

改めて書き記すが、このように秀次の切腹事件は石田三成が黒幕だったわけではない。なぜなら秀次切腹後、秀次の数少ない遺臣たちは三成に召し抱えられたからだ。もし本当に秀次の切腹が三成の進言によるものであれば、果たして秀次の遺臣たちが三成の家臣になり、さらには関ヶ原で三成の下で命を賭しただろうか。

このような以後の状況から考えても、恐らく三成はなんとかして秀次の切腹を回避させようと苦心したのではないだろうか。結果として秀吉を止めることはできなかったわけだが、しかし三成の対応に何らかの恩を感じていたからこそ、秀次の遺臣たちは誰でもなく三成の下で働くことを決意したと考えるのが自然ではないだろうか。

このように考えられるからこそ、豊臣秀次切腹の黒幕は石田三成ではないと断言できるのである。


ishida.gif豊臣秀吉には姉の子、豊臣秀次という甥がいた。秀吉が53歳の時にようやく誕生した男の子、鶴松が僅か2歳で病死してしまうと、秀次は豊臣家の家督と関白職を秀吉から譲り受けた。名実ともに豊臣家の二代目となったわけだ。

秀次は実力に乏しい武将として語られることも多いが、事実はそうではない。生前は数々の武功を挙げているし、習い事にも熱心に取り組み、文武両道の実力派の武将だった。だからこそ豊臣家臣団たちも秀次に気に入られようと尽くしている。中には自らの娘を側室として送った家臣もいたらしい。果たして秀次が本当に無能であったならば、豊臣家臣団がそこまで秀次詣を行っていただろうか。

だがそんな秀次は関白職を賜った天正19年(1591年)から僅かに4年後の文禄4年(1595年)7月15日に切腹を命じられている。理由は諸説あるが、筆者が最も信憑性を感じているのは千利休の切腹と同様の理由だ。そして利休同様、秀次をも切腹に追い込んだ黒幕が、石田三成だと言い伝えられている。だがこれも徳川幕府時代に事実を歪曲されてしまったものだ。三成は利休の切腹も、秀次の切腹も主導していない。

今回は秀次切腹に関して書き進めていくわけだが、ルイス・フロイスの手記によれば、秀次が関白を継いだ2年後に秀吉と淀殿に拾丸(ひろいまる、のちの豊臣秀頼)という待望の男の子が誕生すると、秀次と秀吉の関係はどんどん悪化していったらしい。秀吉はもう自分では子供を作れないと感じていたからこそ甥である秀次に豊臣の家督を譲っていた。だがその僅か2年後に淀殿が男の子を生んだのだった。これにより秀吉は、秀次に家督を譲ったことを後悔し始める。

そして秀次を廃嫡にする理由を探し始めるわけだが、秀吉はその相談も「何か良い手はないか」と三成に持ちかけていたはずだ。恐らくそれによって三成黒幕説が煙を立て始めたのだろう。だが三成は義将だ。いくら秀吉からの相談だったとは言え、秀次を理不尽に廃嫡にする方法など簡単に進言するはずがない。

そんな中秀次は何人かの武将たちとよく鷹狩りに出かけていた。それを知り秀吉は、秀次が反秀吉武将たちと鷹狩りと称し謀反を企てていると断罪したのである。もちろん事実無根であり完全なる捏ち上げた。もちろん三成が流した噂でもない。にも関わらず秀吉は、そうまでしても秀次を廃嫡し、拾丸に家督を譲りたかったのだ。

だがさすがに謀反疑惑はあまりにも根拠がなさすぎるし、周囲もこの噂を鵜呑みにすることはなかった。つまりそれだけ秀次は周囲から慕われてもいたのだ。そして石田三成たち奉行衆の説得もあり、秀次自身が逆心はないという起請文(きしょうもん)を認めたためこの問題はこれで終わっている。

しかしこの後も秀次は次々に疑惑をかけられ、その度に秀吉の命を受けた三成が疑惑の真意を問い質すことを繰り返していた。するとそのうち秀次も呆れ果てたのか、三成の詰問にすぐに応じなくなる。このようなやり取りも、三成黒幕論が恣意的に助長されている場合がある。