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明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

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雨の桶狭間でじっと好機を覗っていた織田軍

永禄3年(1560年)5月19日、東海一の弓取り(武将)と称されていた今川義元が、約2万の軍勢を率いて尾張に侵攻してきた。一説ではこの時、義元は上洛の途上だったとされているが実際はそうではなく、信長が今川領への圧力を増していたことから、早いうちに信長を潰しておこうという義元の考えだったようだ。つまり目的は上洛ではなく、信長の居城である清洲城への侵攻だったのだ。

今川軍が織田領の丸根砦、鷲津砦を攻め始めたのは5月19日未明のことだった。この報告を受けると信長は敦盛を舞い、陣触れし、清洲城を飛び出して行く。向かったのは熱田神宮で、ここで必勝祈願を済ますと戦場へと再び馬を駆けて行った。

19日未明は暴風雨だった。織田軍2,500の寡勢が今川軍2万の大軍を攻めるためには、悪天候に乗じて奇襲をかけるのが常套手段だ。だが信長は雨が上がるまで攻撃は仕掛けなかった。その理由は『松平記』で説明されており、この時今川勢として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は、織田軍は突如として鉄砲を打ち込んできたと書き残している。当時の火縄銃は濡れてしまっては撃つことができない。そのため信長は雨が上がるまで攻撃を待ったのだ。

雨が上がると織田軍は、今川義元の本陣目掛けて一気に斬り込んでいった。なぜこの時織田軍が迷わず本陣を攻められたかといえば、義元が漆塗りされた輿に乗って来ており、その目立つ輿が信長に義元の居場所を教えてくれたためだった。ちなみに漆塗りの輿は、室町幕府から許可されないと乗ることができない当時のステータスだった。現代で言えばリムジンを乗り回すようなものだ。

奇襲の常套手段を用いずに奇襲をかけた織田信長

周辺の村から多くの差し入れもあり、正午頃、今川本陣はかなりのリラックスモードだった。丸根砦と鷲津砦もあっという間に陥落し、今川の織田攻めは楽勝ムードだったのだ。しかも暴風雨が止んだことで、兵たちは奇襲に対する緊張も解いてしまう。なぜなら上述した通り、雨に紛れて奇襲をかけるのが当時の常套手段だったからだ。だが雨が止んだ空の下、突如として織田軍が鉄砲を打ち込んできた。織田軍はここには攻めて来ないと踏んでいた今川本陣は慌てふためく者ばかりで、武器や幟などを捨てて敗走する兵も多かった。

義元自身、300人の護衛と共に本陣から逃げ出すのがやっとで、その護衛も最後には50人まで減っていた。そして最初に義元に斬り掛かった一番鑓の武功は服部一忠だった。一忠は義元に膝を斬られ倒れてしまうが、直後に毛利良勝が二番鑓として義元の首を落とした。

毛利良勝が義元を討ち取ったことにより午後4時頃、桶狭間の戦いは幕を閉じる。2,500人の織田軍が討ち取った今川兵は3,000にも上った。信長の勝因はまずは雨が止むのを待って鉄砲を用い、兵をすべて今川本陣に一極集中させたことで、一方義元の敗因は大軍を分散させ、さらに輿により自らの居所を信長に教えてしまったことだった。

この桶狭間での勝利を境に信長は天下へと駆け上り、逆に敗れた今川家は滅亡へのカウントダウンが始まり、この8年後に大名としての今川家は滅亡してしまうことになる。

織田信長の負の定説は秀吉が書かせた捏ち上げ

織田信長という人物は冷酷で、男色でもあったという定説が現在では当たり前のように知られている。だが明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変 431年目の真実 』という本を読むと、それは羽柴秀吉が本能寺の変後に作ったイメージに過ぎないことがよくわかる。

明智憲三郎氏は本能寺の変を起こした明智光秀の子孫であると言う。だがこの本は決して先祖を擁護するような感情論的な本ではない。本能寺の変を徹底的に歴史捜査し、推測ではなく、戦国時代に書かれた書状や日記などで証拠を固めながら書かれた良書だ。

当サイト戦国時代記では、本能寺の変にまつわることは主にこの本の情報を基にし、今までの定説に縛られることなく事実のみを発信していきたい。

信長の時代に生きた人々の日記などからは、信長は決して冷酷な人間ではなかったことがよくわかる。例えば本能寺の変であるが、明智光秀の謀反を知り、信長が真っ先に取った行動は女子供など弱者を逃すことだった。

そして信長に男色のイメージがつけられたのは羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』によってだった。惟任日向守とは明智光秀のことで、秀吉自らが逆臣光秀を討ったことを宣伝するために書かせたいわゆるプロパガンダ本だ。森蘭丸は歴史好きであれば誰もが知る名だと思う。だが蘭丸と書かれたのは『惟任退治記』によってで、秀吉は蘭という字には男色のイメージがあるため、森乱丸を森蘭丸とわざと変えて書かせたようだ。

さらには女遊びが好きだったという信長のイメージも、やはり本能寺の変後に秀吉が書かせたことだった。明智憲三郎氏の著書によれば、秀吉が織田政権を奪取しやすくなるよう、信長を負のイメージで固めたのだという。その証拠に関しては上述した本を読んでいただきたいところだが、読めばなるほど納得できる。

信長という人物は確かに激情家ではあったようだ。だが決して冷酷な人間でも男色でもなく、女にだらしのない人物でもなかったのだ。今日までに作られた信長の負のイメージは、すべて秀吉が信長の死後に作り上げたものだったのだ。

織田信長は天下統一を直前にし、最も信頼を寄せていた家臣に裏切られ49歳でこの世を去った。もし本能寺の変が起こっていなければ徳川幕府が開かれることはなく、きっと織田幕府が開かれていたのだろう。だが織田幕府が徳川幕府ほど長くは続かなかったであろうことは、当時信長が考えていたことを思えばよくわかる。それについてはまた別の巻にて書いていきたいと思う。

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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。

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永禄10年(1567年)11月、この頃初めて織田信長が「天下布武」の朱印を使い始めたとされている。一般的には「武力を以って天下を治める」と理解されているが、しかし実際にはそういう意味ではなかった。この言葉は臨済宗妙心寺派である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が信長に進言したとされているが、しかし実際にそうであったという明確な記録が残っているわけではないようだ。

天下布武、岐阜命名は沢彦の助言によるものだった

沢彦宗恩は、吉法師(幼少時の信長)の守役であった平手政秀と親交があったことから、その平手政秀の推薦により吉法師の教育係に任命された僧侶だった。そして平手政秀が信長の蛮行の責任を取る形で自刃(自刃の理由は諸説あり)を果たした後も、信長の相談役として仕え続けた。天正15年(1587年)に死去したことはわかっているが、しかし生まれた年などの記録はまったく残っておらず、よく名が知られた戦国時代の僧侶であるにも関わらず、非常に謎が多い人物でもある。

一部ではこの沢彦が「天下布武」という言葉を信長に進言したとされているが、実際にそうだったのかはもはや誰にもわからない。だが常時信長の側に仕えていたことは事実であるため、今日ではその可能性が高いと考えられている。ちなみに稲葉山という地名を岐阜に変えた際の助言も沢彦が信長に与えており、この時沢彦は岐阜、岐山、岐陽という三案を伝え、その中から信長が岐阜を選んだとされている。

天下布武とは武力で天下を治める、という意味ではなかった?!

さて、ここからが本題であるわけだが、「天下布武」とは決して武力を以って天下を治めるという意味ではない。ではどういう意味かというと、「足利将軍を中心にし、乱れていた畿内の秩序を取り戻す」という意味となる。天下というのは日本全国ではなく、政の中心地だった畿内のことを指し、武とは武家、つまり足利将軍のことを指している。

この頃の信長は多くの書状に「天下布武」の朱印を使っているわけだが、仮に「武力を持って天下を治める」という意味であったなら、信長はこの朱印を用いることで、全国の大名たちに宣戦布告していた、ということになる。だが実際には宣戦布告として受け取られることはなく、戦国時代では「天下=畿内」「武=足利将軍」という意味はごく一般的な言葉として使われていたようだ。

天下布武から天下静謐へ

信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たしている。つまり第13代将軍足利義輝が松永久秀と三好三人衆の陰謀により殺害され、その後義輝の従兄弟である足利義栄が第14代将軍の座に就くも約半年ほどで死去したことにより乱れ切っていた畿内の秩序を、信長はその時に取り戻したということになる。これによって天下布武は達成されたと考えることができる。

そしてあまり知られてはいないが、信長は「天下布武」を成した後は「天下静謐(せいひつ)」を自らの政治的標語としている。天下静謐とは、取り戻した秩序を維持するという意味だ。信長と義昭の関係が良好だった頃は、義昭が政治面での静謐、信長が軍事面で静謐を担う分業制を敷いていた。だが仲違いし義昭を追放した後は、信長は天下静謐を全面的に自らの職責としていく。

最後に一点付け加えておくと、信長は義昭を利用し、義昭も信長を利用していたとよく言われるが、しかしこれは信長と義昭に限った話ではない。室町幕府では将軍家とそれを支える大名家、つまり細川氏や六角氏などは、お互いにお互いを利用し合うことで力を維持してきたという歴史がある。つまり信長と義昭がお互いを利用し合ったことは、当時の将軍家と有力大名の間ではごく自然なことだったということを伝えて、この巻を締めくくることにしたい。

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。
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織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。


織田信長には、正室である濃姫以上に愛していた女性がいた。吉乃(きつの)という人物だ。吉乃は元々は土田御前(信長の母)の甥である土屋弥平次に嫁いでいたが、弥平次が弘治2年(1556年)に戦死し、19歳という若さで未亡人になってしまった。そして吉乃が未亡人になった頃にその存在を知った信長の恋心はどんどん膨らんで行く。ちなみに吉乃という名前は後世の創作で、実名は定かではない。

さて、信長自身は天文18年(1549年)2月24日に斎藤道三の娘、濃姫と結婚している。濃姫に関しては若くして亡くなった説や、本能寺の変で信長と共に戦い死んだという説など、諸説存在している。若くして亡くなったとしても、それでも信長は濃姫の目を盗んでは吉乃に会いに行く日々を続けていた。時期としては桶狭間の戦いが起こる前の数年間だ。

吉乃は馬借(ばしゃく・馬を使った運送業)をしていた生駒家宗の長女だったのだが、弥平次が死んでからは生駒家に戻っていた。そして信長は当時の居城であった清須城から10キロ離れた生駒家まで馬を駆けて通っていたと言う。若き日の信長は毎日馬で山野を駆け巡り地形を頭に叩き込んでいたのだが、そのついでに生駒家に通う日々だったのかもしれない。

吉乃はその後、信長の側室として迎えられた。そして嫡男信忠、信雄、徳姫を産むのだが、吉乃は元来体が弱かった。それもあり出産をするごとに体力を失っていき、病に伏せるようになってしまう。信長は吉乃のために名医を呼び、金に糸目をつけず吉乃のために薬を手に入れた。そして少し元気な日には吉乃の体を支えながら屋敷内を一緒に歩いたと言う。

時には吉乃を支えながら歩き家臣団がいるところまで連れて行き、吉乃を家臣たちに紹介することもあったようだ。普段は激烈な信長の姿ばかりを見ている家臣たちは、その信長の優しい姿を見てさぞや驚いたのではないだろうか。

信長は吉乃のために輿まで用意すると言った。当時輿と言えば、身分の高い女性だけが乗ることを許された乗り物だった。それを馬借の娘であり、側室という身分でしかなかった女性が乗ることなど、普通ではまず考えられることではない。つまり信長はそれほどまでに吉乃に愛情を示していたということなのだ。

だが吉乃の病状が良くなることはなく、永禄9年(1566年)5月13日、29歳という若さで他界してしまう。この頃の信長は戦に明け暮れ、吉乃に会いに行けることも減っていた。時期は信長が稲葉山城を手に入れる直前だ。

この頃の信長は稲葉山城を攻めるため、稲葉山城にほど近い小牧山城に居城を移していたのだが、吉乃はそこから西4キロほど離れた久昌寺で荼毘に付された。

吉乃を弔った久昌寺の僧侶は「信長公は妻女(吉乃)を哀慕し小牧山城の櫓に登り、(吉乃が眠る)遥か西方を望んで涙を流していた」と書き残している。

織田信長は決して冷徹なだけの人物ではなかった。愛した女性に対しては深い愛情を示し、無償の愛を贈ることのできる男だったのだ。信長にこれほど愛され、吉乃はきっと幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そして吉乃が最初に産んだ子、織田信忠もまた愛情深い人物に育っていく。詳しくはこちらの巻を参照していただきたい。

吉乃を亡くした数年後、信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井父子・朝倉義景の髑髏を金箔で飾り、荒木村重一族を皆殺しにするわけだが、もしかしたら吉乃を失った深い悲しみを誤魔化すために愛情とは真逆の行動を取り続けたのかもしれない。

なぜそう思うかと言えば、吉乃が存命していた頃の信長は寛大な対応を見せることも多かったからだ。相続争いの際には柴田勝家らを許した。後には稲葉山城を奪取していた竹中半兵衛に信長は再三好条件での開城を要求したのだが、半兵衛はそれを断り続けた。その半兵衛を数年後、半兵衛の思うような形で織田の寄人になることを許している。

だが吉乃を失ったあとはこのような寛大な対応が減り、黒田官兵衛に裏切りの疑惑がかけられると人質松寿丸の処刑をかんたんに命じてしまうような姿も見せている。今となっては信長の心境などわかるはずもないが、しかし吉乃を失った悲しみはとても一言で言い表せるものではなかったのだろう。もしかしたら吉乃の死が信長を魔王に変えてしまったのかもしれない。
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本能寺の変が起こった原因を、織田信長からキツく当たられた明智光秀の怨恨だと解説している本もある。しかし現実はそうではなかったようだ。織田信長は、明智光秀ほど信頼していた人物はおらず、逆に羽柴秀吉のことはそれほど信用していなかったようだ。

有名な逸話として、本能寺で徳川家康を歓待するためのもてなし役を任されていた明智光秀が、信長が気に入らない準備をしてしまったために役を解任され、さらには人前で足蹴にされたというものがある。しかしこれも噂に尾ひれが付いたものであるようだ。詳しくは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』に証拠の紹介と共に記されているのだが、決してもてなし方が拙かったから解任されたわけではなかった。

羽柴秀吉はこの頃中国の毛利攻めを担当していたのだが、秀吉は信長の顔を立てるためなのか、本来は必要のない援軍を信長に求めていた。だが秀吉をそれほど信用してはいない信長は、光秀を毛利攻めの陣中に送ることにした。これが解任の本当の理由だ。だがこれは通説のように光秀が秀吉の傘下に付くというものではなく、戦況を見極めるための軍師役として信長が指示したものだった。

秀吉の傘下に入ることを嫌った光秀が、信長のその指示に憤怒して本能寺を攻めたという説もあるが、つまりはこれも誤りということになる。毛利攻めへの軍師役に関しても、実は光秀を本能寺から切り離すための演技だった。信長としては、光秀を本当に毛利攻めに参加させるつもりではなく、光秀もそれは最初からわかっていた。

そして光秀が信長に足蹴にされたという逸話だが、これは光秀が本能寺の変を起こしてまで再興させたかった土岐家と縁のある、長曾我部討伐を思い留まるように光秀が信長にしつこく懇願してのことだったと明智憲三郎氏は歴史捜査によって導き出している。

決して光秀が人前で足蹴にされたり、鉄扇で叩かれたという事実はなく、信長が光秀を足蹴にしたのは密室でのことだったようだ。ではなぜ密室で起こったことが他者の耳に入ったかと言えば、信長の小姓を務めていた彌介(黒人)がそれをそばで目撃し、南蛮寺でのちに話したことが尾ひれを付けて広まったらしい。

信長が光秀を辱しめ光秀の恨みを買った、秀吉は信長に大層気に入られていた、という通説は、どうやらのちに秀吉が演出した作り話であるようだ。特に信長と光秀の不仲に関しては、秀吉が自らの天下取りの宣伝用に書かせた『惟任退治記』によって強調されたものだった。

だが信長は光秀を誰よりも信用し、秀吉のことはそれほど信用してはいなかった、というのが真実であったようだ。だからこそ信長は家康の暗殺を秀吉ではなく、光秀に命じたわけだが、しかし長曾我部討伐が影響し、信長は光秀に裏切られてしまった。そしてどうやら秀吉は本能寺の変が起こるであろうことを前々から知っていたようなのだ。そしてそれを契機に主権を奪い取ろうと企てていた節が秀吉にはある。

史家の最新の研究を拝読していくと、我々歴史好きが誤認している通説が非常に多いということがよくわかる。10年前は常識だった通説も、今ではその事情がすっかり変わってきてしまっているのである。それを踏まえると、書籍によって歴史の真実を見極める我々の目ももっと鍛えていかなければならないのかもしれない。
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天正10年(1582)年6月2日、本能寺の変はなぜ起こってしまったのか?!誰が黒幕だったかということでも様々な論争が行われているが、黒幕がいたようには感じられない。本能寺の変について書いた他の巻でも書いたことではあるが、これは織田信長の将来構想に対する家臣たちの不安の産物だったと考えられる。


筆者はこれまで多数の本能寺の変に関する書物を拝読してきた。その中でも多くのことを証拠を用いてスッキリさせてくれたのが明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実 』という一冊だった。この中で筆者が最も衝撃的だったのが、信長が手勢僅か100人程度で本能寺に滞在していた理由だった。

さて、信長と家康と言えば兄弟同然の間柄として有名だ。信長は家康のことを弟のように可愛がり、家康も信長のことを兄のように慕っていた。これが通説であるわけだが、事実そうだったと思う。本心はさておき、信長と家康の仲を悪く書いた当時の書物はないようだ。

信長が本能寺に滞在していた通説は、本能寺で家康を接待するためだったと言われている。だが明智憲三郎氏の歴史調査によると、事実はそうではなかったようだ。確かに家康を接待するために信長はわざわざ本能寺に家康を呼び寄せた。しかし事実は決して接待するためではなかったと言う。

この時、明智光秀は手勢を控えて本能寺の近くに控えていた。通説のうちにはノイローゼ気味だった光秀が、突発的に本能寺を襲撃したと書かれたものもあるが、これらの考察はすべて推察でしかなく、何の根拠も示されてはいない。だが明智憲三郎氏の著書は違う。証拠をいくつも並べ立てた上で、信長が家康を本能寺に呼び寄せたのは、家康を暗殺するためだと証明して見せている。他の本能寺の関連本とは異なり、証拠が示されているだけにとにかく説得力があるのだ。

信長は、家康に警戒されないように100人程度の手勢だけで本能寺に滞在していた。つまり油断していたわけではなく、家康を警戒させないための芝居だったと言うわけだ。だが信長の誤算は、光秀を信じ過ぎたことだった。これは金ヶ崎撤退戦と同様だ。金ヶ崎撤退戦でも信長は義弟浅井長政を信じ過ぎ、危うく命を落とすところだった。

一度目は何とか命拾いした。だが二度目は浅井長政よりも遥かに智謀に優れ、経験豊富な明智光秀が相手だった。光秀は影で家康と密約を結んでいたと言う。光秀は、本能寺に入った家康一行を暗殺するために本能寺近くで待機していた。だが光秀は家康と手を結ぶことにより、これを家康暗殺ではなく、信長暗殺に計画を仕立て直してしまったのだ。詳しくはぜひ明智憲三郎氏の著書を読んでもらえたらと思う。

つまり本能寺で本来討たれる相手は徳川家康だったのだ。信長は家康のことを高く買っていた。それだけに自身亡き後、家康が子孫たちの脅威になると考えたようだ。その後家康が豊臣家から天下を奪い取ってしまうように。それを未然に防ぐため、信長は早いうちに家康を屠ってしまおうと考えたらしい。

話をまとめるとこうだ。信長は、家康を暗殺するために本能寺に呼び寄せ、光秀に暗殺を命じていた。だが光秀は家康と手を結んでしまい、家康ではなく主君信長を討ち果たしてしまったというわけだ。

戦国時代に武将たちが最も重視していたのは、いかにして家を守るかということだった。家を守るためなら身内であっても討ち果たすことなど日常茶飯事だった。信長が家康の暗殺を企てたのも織田家を守るためなら、光秀が信長を討ったのも明智家(土岐家)を守るためだった。そして家康が光秀の企てに力を貸したのもやはり、徳川家を守るためには光秀と手を結んだ方が上策だと考えたからだった。

明智憲三郎氏の著書を拝読しながら改めて本能寺の変を考えていくと、これは決して偶発的に起こったクーデターなどではなく、起こるべくして起こった出来事だったということがよくわかるのである。
oda.gif桶狭間の戦いで、なぜ織田信長は寡兵で大軍今川義元を討つことができたのか?織田軍、今川軍の軍勢はそれぞれ資料によって違うことが書かれているわけだが、今川軍はだいたい2万前後で、織田軍は多くても5千程度だったようだ。

ただ織田軍の5千に関しては『三河物語』で、今川方の石河六左衛門尉が「織田軍は少なくとも5千に見える」と語ったことが記録されている数字で、他には3千と書いている資料もある。そう考えると実際には3〜4千という実数だったのではないだろうか。

ちなみに『信長公記』では今川軍は4万5千と書かれているが、これは織田方から見た資料であるため、書かれている内容は誇張されているのだろう。やはり2万から2万5千というのが今川軍の現実的な軍勢だったようだ。

ここでは今川軍2万、織田軍4千と仮定してみたい。それでも実に5倍もの差がある。桶狭間の戦いは4千の織田の軍勢が2万の今川軍を打ち破ったことになっているが、実際には4千vs2万という人数で戦ったわけではない。今川軍は軍勢をいくつかの部隊に分けており、その中でも先鋒隊は織田軍の半分程度、つまり2千程度だったようだ。

最初にぶつかり合ったのは織田軍4千vs今川先鋒隊2千だった。4千と2千の戦いであるため、ここでは織田軍があっという間に今川先鋒隊を打ち破っていく。そしてこの4千の織田軍は一気に今川本陣へと突き進んでいった。

今川本陣の軍勢は部隊人数的には織田軍と拮抗していたようだ。つまり織田軍と今川本陣との戦いはほぼ4千と4千のぶつかり合いだった。だが織田軍とこの時の今川本陣とでは戦に対する意欲がまるで異なる。織田軍は今川義元の首だけを狙って突き進み、今川軍はまさか織田軍が攻めてくるとは思っていない。今川本陣はあっという間に総崩れになってしまい、義元も300人程度の旗本(主君を守る精鋭隊)に守られながら本陣を脱出するのがやっとだった。

だがすぐに織田軍に追いつかれてしまう。最初に今川義元に斬りかかった一番槍の武功は服部一忠だったが、しかし一忠は義元に膝を切られ返り討ちにされてしまう。そこにさらに義元めがけて斬りかかったのは毛利良勝(新助)だった。良勝は見事義元の首を落とした。

戦は大将を討ち取ったら勝ちとなり、大将を討ち取られたら負けとなる。織田軍は電光石火の如く桶狭間に現れ、あっという間に義元を討つことにより、あっという間に戦を終わらせてしまった。

繰り返すが桶狭間の戦いは4千vs2万で戦ったわけではない。実際の戦いは士気の高い4千の織田軍と、油断した4千の今川本陣との戦いだった。だがこの状況は偶然作られたわけではない。信長が綿密に情報収集を繰り返し、その情報をもとに実行された戦術だったのだ。

この日桶狭間には嵐のような大雨が降っていたのだが、奇襲をかけるのであれば普通は嵐と共に行う。だが信長は雨が止むのを待ってから今川本陣に斬りかかって行った。その理由は嵐の奇襲は今川方も予測しているはずであり、さらに味方の鉄砲隊を有効に使うためだ。突然現れた織田軍が突然鉄砲を打ち込んできたため、今川本陣はそれだけで散り散りになってしまった。そしてこの状況では今川軍に勝ち目はなかったのである。

織田軍の桶狭間の勝利は、まぐれでもなければ奇跡が起きたわけでもない。信長の知略と戦略あってこその、必然の勝利だったのである。

oda.gif本能寺の変が起こる少し以前、一説では2〜3年前とも言われているが、織田家臣団の心は信長から少しずつ離れていこうとしていた。怒涛の1570年代は指揮官としての信長に誰もが付いて行こうとしていたが、信長があることを口にし出すと、家臣団の心配はどんどん膨らんでいったようだ。

そのあることとは「唐入り(からいり)」だ。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが記した『1582年日本年報追加』と『日本史』に「日本六十六ヵ国を平定した暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、その領土を子息や家臣たちに分け与える」と信長が明言したと書かれている。つまり秀吉が実行に移した唐入りは、実は信長が考えていたことだったというわけだ。

だが家臣団にとって唐入りは不安要素でしかなかった。例え広大な領地を与えられたとしても言葉が通じず、食べ物などの文化もまるでわからない地に移封されれば、それは異国に死にに行くのと同然だった。戦国時代には現代では普通に使われているインターナショナルという言葉など存在していない。そもそも外国がどれくらい存在しているのかも当時の日本人はまるで知らなかったのだ。

『孫子』などを読んでいたため、唐(明)のことはよく知っていた。その当時も唐から渡って来た文化の数多くが日本に根付いていたし、中国や朝鮮から渡って来た茶器も多かったという。そういう意味で唐は親しみのある外国ではあったが、それでも言葉が通じないということは誰しもが知っていることだった。

唐入りに参加したとしても、唐に移封されることだけは避けたい、それが家臣団の正直なところだった。そして『本能寺の変 431年目の真実 』を書いた明智憲三郎氏は、これこそが明智光秀が本能寺の変を起こした真の動機だったと言い切る。

政権が長期に渡る場合、将来的には移封されることが一つの前提として考えられていた。例えば本能寺の変を起こす直前、明智光秀は丹波に地盤を築き上げていた。そして明智家をこの地にて磐石なものとしていき、いつかは土岐氏の再興を、と考えていた。だが信長からすれば謀反を防ぐためにも家臣に力を与え過ぎるわけにはいかない。そのため地盤を固める前に移封させ、また地盤を新たに固め直させることを繰り返させ、家臣が必要以上の力を蓄えられない状況を作らなければならなかった。

家臣からすればそれも日本国内なら何とかなる。だが異国となれば話は別だ。言葉が通じなければ善政も何もなく、年貢を納めさせることもままならなくなる。そんな地に行っても家を繁栄させられるどころか、逆に潰してしまう危険性の方が高かった。だからこそ織田家臣団は信長の唐入りに戦々恐々としていたのだ。

そしてその唐入りを阻止しようと実際に行動を起こした人物がいた。明智光秀だ。光秀は信長の腹心だけあり、信長がこのまま日本を平定してしまえば唐入りが避けられない状況になることをよく理解していた。そうなれば織田家で最も力を持っている家臣のひとりである光秀には、真っ先に移封を命じられる危険性があった。

つまり本能寺の変とは唐への移封を阻止し、家を守るため、そして力を蓄えいつかは土岐氏の再興を実現させるため、明智家にとっては必要なことだったのだ。少なくとも明智家を守るためにはそれが最善であると光秀は考えその機会を窺っていたわけだが、そんな折に信長自身が本能寺でほとんど護衛も付けずに滞在するという隙を与えてくれた。

信長は唐入りを目指したことにより光秀に討たれ、実際に唐入りした秀吉は政権を家康に奪われてしまった。そう考えると下手な欲は出さず、とにかく日本という国を平和にすることのみ考えていれば、信長も秀吉ももしかしたら家を滅ぼすことはなかったのかもしれない。

oda.gif比叡山延暦寺が織田信長によって焼き討ちされると、武田信玄は延暦寺の生き残りを甲斐にて保護した。そして信長に対し延暦寺の焼き討ちを「天魔ノ変化」批判する書状を送ると、その最後に「天台座主沙門信玄(てんだいのざすしゃもん)」と署名した。その意味は天台宗の総本山である延暦寺の住職の元で修行をする信玄」となる。

その書状に対し信長は「第六天魔王信長(どいろくてんのまおう)」と署名し返信した。神仏を大切にしようとする信玄に対し、神仏に頼らず幸せになろうと言う信長。ふたりはまさに好対照であった。

第六天魔王という言葉は時に、「魔王信長」という言葉だけが一人歩きしてしまい、悪魔に心を捧げた信長、と誤解されることもしばしばある。だがそうではない。確かに第六天魔王は神仏に対する敵であるわけだが、信長が使った意図は悪魔という意味ではなかった。

確かに第六天魔王波旬となると、波旬(はじゅん)というのは悪魔という意味になる。つまり「仏道の修行を妨げる悪魔」という意味だ。だが第六天魔王信長となると「仏道の修行を妨げる王信長」という意味になる。魔=悪魔と考えるべきではない。

第六天魔王はどのような魔王かと言うと、上述したように神仏に頼らない幸せを人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔神であると言う。つまり信長は神仏に対し多額の布施を包まなくても、信長の政治に従えば人々は幸せになれる、そんな世の中を作ろうとしていたのだ。

実際当時の比叡山の僧侶たちの多くは遊興にかまけ、金貸しを生業としていたようだ。本来女人を絶って修行すべき僧侶たちが遊女としとねを共にすることも日常だったらしい。そんな堕落した僧侶たちに民を救えるはずがないというのが信長の考え方だった。もちろんそんな堕落した僧侶たちに混じり尊敬すべき高僧・僧侶も多かったわけだが、しかし彼らは比叡山の焼き討ちの巻き添えを食ってしまう。

元亀2年(1571年)9月12日、仇敵となっていた浅井・朝倉を比叡山延暦寺が匿ったことにより信長の怒りは頂点に達しこの日、織田軍は比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまった。信長の命は女子供問わず、比叡山延暦寺にいる者はひとりも山から出すなというものだった。いや、本来比叡山は女人禁制であるはずで、そもそも女人などいるはずはなかったのである。そして女人がいないのだから稚児がいるはずもない。だが比叡山には多くの女人と稚児がいた。

ちなみに浅井・朝倉はと言うと坂本での戦いで森可成(乱丸の父)と織田信澄(信長の弟)を討ち取り、その足で比叡山延暦寺に逃げ込んで行った。比叡山に入ってしまえば、さすがの信長も追っては来られないと思ったのだろう。しかしその考えは甘かった。信長は神仏など恐れてはいなかったのだ。

この作戦の先頭に立っていたのは明智光秀だったようだ。ドラマなどでは光秀が焼き討ちに最後まで反論するような場面が描かれてはいるが、事実はそうではなかったようだ。光秀は信長の命に従い、徹底した焼き討ちを遂行している。この功績により坂本領主となった光秀はその後、比叡山の木々も伐採してしまった手の入れようだった。つまりこの頃の信長と光秀はまだ一心同体であったのだ。

比叡山を焼き討ちにしたことにより、信長は日本全国に新たな敵を作り出してしまった。信長自身そのような状況になることは予測していたはずだ。だがあえて焼き討ちを実行したのには、織田軍に立ち向かえる大名・勢力などほとんどいなくなっているという自負からだったのだろう。例え織田包囲網を敷かれたとしても戦い抜ける、そう自信を持っていたのだと思う。だからこそ敵を増やすとわかっていながら、迷わず比叡山を焼き討ちにしたのだろう。

oda.gif天正10年(1582年)6月2日夜、織田信長は京の本能寺で徳川家康が到着するのを寝所で寛ぎながら待っていた。明智憲三郎氏の研究によれば、この時信長は明智光秀と協力し、本能寺で徳川家康を暗殺するつもりでいたようだ。

そのため家康に勘付かれないように、信長自身身構えないという自作自演が必要だったのだ。だからこそ信長にしては本能寺の警護が異常なまでに手薄だった。そんな状況下で信長は家康の到着を待っていたわけだが、そこに突然夜襲の報せが届く。

森乱丸が「明智謀反」を告げると、信長は「是非に及ばず」と呟いた。この言葉の意味は「そうであろうな」というニュアンスだろうか。謀反人が明智光秀だと聞き、「それ以外考えられないな」というニュアンスで出た言葉だったと思う。

金ヶ崎撤退戦で義弟浅井長政を信じ切ったが故に命を落としそうになった信長だが、ここでまた同じ過ちを繰り返してしまう。明智光秀という腹心を信じすぎたが故に、家康を討つはずの作戦を光秀に乗っ取られ、家康を討つはずだった軍勢により自らを討たせてしまった。

織田信長という人物は時に、意外なほど人を信じ切ってしまうことがある。もし信長がいつも通り決して人を信じ切ることをしていなければ、明智の軍勢とは別働隊として、万が一のため密かにバックアップ要員を立てていたはずだ。だが信長は光秀を信じ切ったことにより、ほとんど丸腰の状態で光秀に大きな隙を与えてしまった。

明智謀反の報せを聞いた信長は口に指を当てると「余は余自ら死を招いたな」と最期の言葉を呟いた。この最期の言葉を伝え聞いたのは、信長に仕えていた黒人小姓の彌介だった。彌介は「すぐに逃げろと二条城の信忠に伝えよ」という言伝を受け、本能寺を脱出し、二条城まで走った。

その一連を伝え聞いたイスパニア(スペイン)商人のアビラ・ヒロンが『日本王国記』に記した。日本国内の文献には一切書かれていないことらしいのだが、イスパニア人が書いた『日本王国記』にだけは信長最期の言葉が記されている。これは本能寺の変後に南蛮寺(教会)に逃げ込んだ彌介、もしくは彌介の言葉を伝え聞いた者から聞き、ヒロンが書き記したことであるようだ。

「余は余自ら死を招いたな」と呟いた信長。もしかしたら「家康の暗殺を企てた天罰か」とも思いながら、自ら招いた死を恨んだのかもしれない。

ちなみに本能寺の焼け跡からは信長の遺体は見つからなかったと言うが、事実は違う。信長は自刃し炎に包まれた。そして多くの味方戦死者たちとともに亡骸は焼かれてしまったのだ。つまり信長の遺体が本能寺で見つからなかった、ということではなく、数多の遺骨が転がる本能寺で信長の遺骨を見分けることはできなかった、というのが事実だ。

以前某も本能寺の信長公の墓を訪ねたことがある。だが京都の街並みにポツンと取り残されたような質素さで、とてもあの織田信長公の墓だとは思えなかった。そしてその目と鼻の先にある息子信忠のいた二条城。現代に残されている本能寺跡は、そこで歴史が動いたとは思えないほどの存在感しか残されてはいなかった。

azai.gif朝倉からの助勢は朝倉景健の8000だった。これは織田への援軍である徳川5000と比較をすると3000も多い。ここだけを見ると、朝倉義景は本気で浅井を救いに行ったようにも見える。しかし事実は違う。朝倉義景は浅井を救うこと以上に、8000の軍勢をできるだけ消耗させずに連れ帰るようにと景健に命じている。

さらに徳川勢は当主である徳川家康が直参しているにも関わらず、朝倉義景は他で戦をしていたわけでもないのに義景自身が出陣してくることはなかった。つまり体裁を保つために8000という軍勢を送ってはいるが、義景自身はまったく浅井を本気で救う気はなかったようだ。織田の朝倉攻めでは浅井に助けられていたにも関わらずだ。もし義景が本気で浅井を救おうとしていれば、間違いなく義景自身が出陣していたはずだ。

元亀元年(1570年)6月28日午前4時頃、姉川の戦いは開戦された。まず戦ったのは徳川勢と朝倉勢だった。数の上では8000の朝倉勢が5000の徳川勢を圧倒しているわけだが、戦いはほとんど互角で膠着状態が続いた。一方織田とぶつかり合う浅井は必死だ。3万5000の織田軍に対し、自軍は僅かに5000の兵のみで打って出ている。だが5000の兵すべてを織田本陣に向けて突撃させた浅井勢の突破力は凄まじい。11段構えを敷いていた織田軍を次々と打ち破っていく。

このままでは信長は討たれてしまうのではないか、そう感じた家康は機転を利かせ、榊原康政に浅井長政勢の横を突かせた。突如として横を攻められ浅井勢は大混乱に陥る。信長の首にたどり着くまでもう少しのところで総崩れとなってしまった。

徳川家康は信長に対して大きな恩を売ることができ、逆に朝倉勢は何の役にも立たないまま足早に越前へと引き返していった。そして小谷城へと撤退する浅井勢を織田勢も追撃したが、長政を討ち取るには至らず、その足で横山城への再攻撃に転戦して行った。

こうして姉川の戦いはあっという間に終わったわけだが、浅井・朝倉の被害は甚大だった。まず長政は最も信頼していた重心である遠藤直経と弟の浅井政之ら、名だたる武将たちが討ち死にを果たした。そして朝倉勢も猛将真柄直隆らが討ち死にを果たす。真柄直隆と言えば長さ221.5センチ、重さ4.5キロという非常に長く重い真柄太刀で戦ったことでも有名な猛将だ。朝倉軍で多くの武功を立てた武将だったが、彼もこの戦いで討たれてしまった。

ちなみに「姉川の戦い」というのは徳川方の呼び名だ。それぞれの家記ではそれぞれが布陣した場所で呼ばれており、織田・浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼ばれている。やはり後々歴史に残るのは滅んだ家の話ではなく、栄えた家の話であるようだ。

さて、姉川の戦いから2ヵ月経った9月、浅井・朝倉連合軍は態勢を整え、合わせて3万の軍勢で信長不在の京に攻め込んだ。織田・徳川、浅井・朝倉にとって姉川の戦いとは、これから始まる壮絶な戦いのまだ序章に過ぎなかったのである。


oda.gif朝倉攻めで義弟浅井長政に裏切られた織田信長は、猛烈な怒りを心の中で沸騰させていた。信長が最も許せないのは味方の裏切りであり、疑わしきは罰するという態度を常々示している。今回裏切られた相手は妹市を嫁がせた浅井長政だけあり、信長の怒りも沸点に達してしまった。

信長はまず、小谷城までの経路の確保に努めた。その任を仰せつかったのが羽柴秀吉であり、調略を担当したのが稲葉山城乗っ取り事件を起こした竹中半兵衛だった。この頃竹中半兵衛は客人として秀吉の陣に加わっており、軍師として活躍していた。半兵衛の活躍で堀秀村の調略に成功し、織田勢は難なく小谷城への経路を確保することができた。

元亀元年(1570年)6月21日、織田軍は浅井父子が立て篭もる小谷城を取り囲み、城下に火を放って回った。信長の作戦は長政を挑発し、野戦に持ち込むことだった。だが長政も愚将ではない。信長の作戦などすでに見通しており、挑発に乗ることはなかった。だが信長も長政が愚将ではないことをよく知っている。だからこそ愛する妹、市を嫁がせたのだ。

信長は第二の作戦に出た。長政にあえて背を見せ、背後から襲わせるという作戦だ。だがもちろんただ襲われるわけではなく、追撃に出てきた浅井勢を返り討ちにするための作戦だった。浅井勢は多少の追撃は見せたものの、しかし本格的に城から討って出ることはなかった。だが籠城戦に持ち込まれ、小谷城を陥すのに何ヵ月も、何年もかけるつもりは信長にはない。

信長は方向転換をし、支城である横山城の攻略へと向かった。小谷城からは6キロ程度しか離れていない、まさに目と鼻の先にある支城であり、信長はここを本拠にし本格的な浅井攻めを行う腹づもりだった。大方の予想通り横山城はあっさりと陥落した。そしてこの頃6月24日、織田軍には5千の兵を率いた徳川家康が加わった。

一方浅井方にも、8千の兵を率いた朝倉景健(かげたか)が援軍に駆けつけた。すると6月26日、織田軍4万+徳川軍5千、浅井長政5千+朝倉景健8千が大依山(おおよりやま)で対峙する形となった。4万5千と1万3千とではあまりに兵力に差があり過ぎる。だがこれを逆手に取ったのは長政だった。6月27日、この大差により一旦兵を引く姿を見せる。もちろんこれは長政の陽動作戦だ。織田勢を誘き寄せ、地の利を活かし戦うつもりだった。しかし信長がそんな戦術に乗ることはなく、織田勢が追撃に出ることはなかった。

6月28日、浅井・朝倉連合軍は結局姉川まで軍勢を進め態勢を整えた。そして川を挟み浅井の正面には織田、朝倉の正面に徳川が向かい合う形で布陣した。いよいよ姉川合戦の火蓋が切られようとしていた。


azai.gif第15代将軍足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、大名たちに対しても上洛を求めた。つまり第15代将軍への挨拶に出向けという指令だ。しかし尾張の田舎大名の指示に従う謂れはないとし、この上洛命を無視する大名も中にはいた。その中でも最も酷かったのは朝倉義景で、理由をつけて上洛を先延ばしにするどころか、再三に渡る上洛命を義景は無視し続けたのだった。

これにより信長と義景の関係はさらに悪化していく。だが義景にしてみれば確かにこれは面白くない上洛だった。何故なら信長が義昭を奉じ上洛する直前まで、義昭は越前朝倉家の庇護下にあったのだ。だが美濃を制した信長が上洛できる旨を書状で伝えてくると、義昭は越前を去り信長の元へと鞍替えしてしまう。

義昭は朝倉から受けた恩に感謝を示したものの、義昭が朝倉の天敵である織田家に鞍替えしてしまったことがまったく面白くない。しかも信長からは上洛の命が何度も届く。尾張の田舎大名から上洛の命を受けることなど、名門朝倉家としては受け入れられるものではなかった。それが例え第15代将軍足利義昭の名代であったとしても。

朝倉と織田の関係が悪化していることに最も頭を悩ませたのは浅井長政だった。浅井の了承なしに朝倉を攻めないという約束をしてはいたが、しかしまさに今一触即発状態に陥っている。信長は今にも朝倉攻めを開始しそうな様相を見せていた。

元亀元年(1570年)2月30日、信長は3万の大軍を率いて上洛すると、4月20日には若狭国の武藤氏を討つために京を後にした。そしてあっという間に武藤氏を征伐すると4月24日、信長はそのまま東に進路をとることを重臣たちに告げた。つまりこれは上洛命に従わない朝倉を征伐することを意味していた。

信長はこの時、果たして長政との約束を忘れてしまっていたのだろうか。それとも覚えてはいたが、上洛命に従わなかったという大義名分があったため、約束など関係ないと踏んだのだろうか。信長は浅井に断ることなく朝倉攻めを開始してしまった。4月25日には天筒山城(てんづつやま)をあっという間に陥落させ、翌26日には金ヶ崎城と疋田城(ひきた)を陥した。

織田軍は破竹の勢いで朝倉義景の居城である一乗谷館に迫ろうとしていた。そして浅井長政は大きな決断を迫られていた。義兄である信長につくべきか、祖父の代に浅井の独立に力を貸してくれた大恩ある朝倉に味方すべきか。長政の決断により浅井家の運命は大きく変わってしまう。浅井家を守るも滅ぼすも、長政のこの決断一つですべてが決まってしまう。

父久政は当然朝倉に味方すべきだと長政を説く。そして重臣たちもまた約束を反故にした信長よりも、大恩ある朝倉に味方すべきだという意見が大勢を占めていた。だが浅井を守るためには朝倉を見捨ててでも織田につくべきだということもまた、長政にはわかっていたのだ。それでも長政の意見を支持する家臣は少なかったようだ。

この時信長はと言えば、まさか義弟が裏切るとは夢にも思っていなかったようだ。信長という人物は時に人を信じ過ぎる嫌いがある。本能寺の変も、明智光秀を信じ過ぎたばかりに相手に隙を見せてしまった。今回もやはりそうで、長政を信じ切ったが故に信長は北近江を背にした状態で朝倉攻めを開始してしまった。

長政は市を愛し、市もまた長政を愛していた。だが浅井家に於いて朝倉に味方することが総意になりつつある中、長政ひとりの意見で織田につくという決断を下すことはできなかった。長政は最後の最後で自らの判断ではなく、周りに押し切られる形で朝倉に味方することを決めてしまう。故に後々優柔不断の将であったと後々語られてしまうのである。

長政は義兄を敵に回すことを市に詫びると、がら空きになっている織田軍の背後を突くため小谷城から出陣していった。そして市は小豆を藁で包み両端を縛ると、それを急ぎ兄信長の元へと送った。これは浅井・朝倉に前後を挟まれ、織田が袋の鼠状態であることを伝える市からのメッセージだった。ただしこのエピソードに関しては、後世書かれた『朝倉家記』で創作された話であるようだ。

信長はそのメッセージをすぐに理解し、義弟浅井長政の裏切りを知り烈火の如く怒り狂うのだった。そして羽柴秀吉に殿を命じると、壮絶な戦いにより金ヶ崎を撤退していく。長政からすれば、もしこの戦いで信長を討つことができなければ、それはすなわち浅井家の滅亡を意味していた。しかし信長は命辛々でありながらも無事に京に辿り着いてしまうのだった。


azai.gif浅井長政はなぜ義兄である織田信長を裏切り、姉川の戦いにより浅井家を滅亡に導いてしまったのだろうか。浅井長政は決して愚将ではなかった。武勇に優れ、文武両道の優れた武将だったと伝えられる。しかし反面、優柔不断だったことも伝えられている。果たして浅井長政は本当に優柔不断で、それにより浅井家を守ることができなかったのだろうか。

浅井賢政が、戦国一の美女と謳われた信長の妹、市を娶ったのは永禄10年(1567年)9月のことだった(時期については諸説あり)。これは浅井家と織田家を結ぶための、いわゆる政略結婚で、この婚儀を機に賢政は信長より一字拝し長政と改名している。ちなみに賢政という名は、かつては主従関係にあった六角義賢の賢をもらった名だった。

浅井家と織田家の関係は同盟当初は非常に友好なものだった。長政自身、信長の天下取りの助力となることを望んでいたともされている。だが唯一の懸念は、かねてより織田家と朝倉家の関係が悪いということだった。浅井家は朝倉家には大恩があった。そのため浅井家としては両者にはあまりいがみ合ってもらいたくはない。

そんな長政の思惑もあり、織田家と同盟を結ぶ際、浅井に断りなく朝倉を攻めないことを信長に約束させている。この約束により、例え織田家と朝倉家が一触即発状態になったとしても、間に浅井が入れば最悪の状態は回避できるはずだった。

浅井家と織田家の同盟については、実は浅井家の総意ではなかったようだ。先見の明があった長政には、今の時代では信長と手を結ぶことが浅井家を守る最良の手だとわかっていた。だが朝倉との仲を懸念する父、浅井久政や何人かの重臣はこの同盟には反対だったようだ。

しかし同盟を結ばなければ、美濃の斎藤が滅んだ後は浅井が織田に攻められることは明白だった。何故なら信長が尾張から上洛するためには、浅井家が支配する北近江を通らなければならない。もし浅井が道を空けなければ、信長は力づくで道を確保するはずだ。長政にはそれがわかっていたからこそ、久政が大反対をしても織田との同盟を推し進めたのだった。

このような点を見ていくと、浅井長政は決して優柔不断ではなかったように感じられる。むしろ積極果敢に未来を切り開こうとする才知溢れる武将のようにも見える。

浅井の協力もあり、信長は永禄11年(1568年)9月16日に足利義昭を奉じ念願の上洛を果たした。だがこの上洛が長政の頭を悩ませることになっていく。