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櫓から小便をかけられても怒る素振りさえ見せなかった竹中半兵衛

竹中半兵衛

永禄7年(1564年)2月6日の夜、織田信長が4年攻めても落とせなかった美濃・稲葉山城を、竹中半兵衛重治が僅か16人の手勢のみで鮮やかに落として見せた。稲葉山城は天然の要塞とも呼ばれ、これまでどれだけの大軍で攻められても落ちなかった難攻不落の城として有名だった。果たしてこの城を、竹中半兵衛はどのような手を使って僅か16人で落として見せたのか?

そもそも竹中半兵衛は斎藤家の家臣だった。だが斎藤家の他の熱血的な武将たちとは違い、半兵衛はいつも飄々とし、何を考えているのか分からないような人物だった。だがそれは生気がなかったからではなく、斎藤家が近い将来滅びるであろうことが半兵衛には分かっていたからこその姿だった。愚将の主斎藤龍興を守るために熱を帯びることなど、半兵衛にとっては無駄以外の何物でもなかったのだ。

龍興は、祖父道三の頃から仕えている斎藤家の重臣たちをことごとく遠ざけ、自分の言うことをよく聞く者だけを側に置き重用するようになった。そして龍興がことあるごとに半兵衛を馬鹿にするため、龍興の側近たちもそれを真似て半兵衛をからかうようになった。斎藤飛騨守秀成に関しては、菩提山城へ戻って行く半兵衛に対し櫓から小便をかける蛮行を見せたほどで、これは永禄7年、半兵衛が新年の挨拶をするために稲葉山城の龍興の元に出向いた帰り際の出来事だった。

小便をかけられてもなお半兵衛は無表情のまま、不気味なほど冷静な目礼だけをし稲葉山城を去っていく。小便をかけられれば、普通の武士であれば抜刀し怒りを露わにするのが当然だ。だが半兵衛は表情一つ変えない。この半兵衛の姿に逆に恐怖感を覚えたのは斎藤飛騨守の方だった。慌てて龍興の元へ行くと、半兵衛に復讐されるかもしれないと助けを求め、また、半兵衛には逆心があるのではないかという疑心まで龍興に植え付けようとした。

後日、龍興は半兵衛を稲葉山城に呼び出し、逆心の疑いをかけられていることを伝えた。そして半兵衛はそのつもりはないと証明するため、弟である竹中久作重矩(きゅうさくしげのり)を人質として差し出した。だがこの人質こそが、半兵衛が仕掛けた稲葉山城乗っ取り作戦の初動だった。半兵衛は人質として稲葉山城に送られる重矩に対し、2月になったら仮病を患えと命じていた。

逆心を疑われて差し出した弟に仮病を使わせた竹中半兵衛

重矩はその通り、2月になると腹痛で苦しむ振りをした。その痛がりようは尋常ではなく、医者にも痛みの原因が分からない。しかし当然である、仮病なのだから。これは命に関わる重病に違いないと思った龍興は、菩提山城の半兵衛に報せを走らせた。そして半兵衛はまず弟の病を主に詫び、すぐに見舞いに向かうつもりだと返した。

そして2月2日、半兵衛は16日の共を連れ稲葉山城に入った。半兵衛たちはまったくの軽装で、持っていたのは幾つか長持だけだった。これには見舞いの品や、龍興への手土産が入っていると言い城内に持ち込んだ。だが実際に入っていたのは16人分の武具だった。

2月6日になると竹中半兵衛と16人の家臣たちは、長持に隠し持っていた武具を次々纏っていく。この日は夜風が冷たい静かな夜だったらしい。半兵衛は城内を散歩しながら、ようやく二の丸付近で探していた人物を見つけ出した。そう、斎藤飛騨守秀成だ。

遭遇するなりまた威丈高に物言う飛騨守を、半兵衛は一瞬のうちに切り捨てたと伝えられている。実はこの夜の夜警が斎藤飛騨守であることを、半兵衛はあらかじめ知っていた。この2月、斎藤飛騨守は1〜6日の夜警を担当していた。だからこそ半兵衛は夜警最終日であるこの日に稲葉山城を乗っ取ることにしたのだった。

斎藤飛騨守を切り捨てると、半兵衛は家臣たちに「竹中の兵が大勢城内に攻め込んできた」と城内で吹聴させて回った。すると城内は大混乱に陥り、着の身着のまま城を逃げ出す者が続出し、城を守ろうとする者はほとんどいなくなった。斎藤龍興も側近である長井新八郎と新五郎兄弟に支えられ、状況を把握できないまま城を捨て逃げ出すという有様だった。

織田信長と舅安藤伊賀守を感服させた19歳の竹中半兵衛

龍興が城を捨てたことでこのクーデターは完了し、稲葉山城は竹中半兵衛の手中に落ちた。なおこの時、半兵衛の舅である安藤伊賀守範俊がもしもの時のため城下で待機していたようだ。数日前に事を起こすことはすでに本人から伝えられていたが、舅はまさか婿がこの乗っ取りを成功させるとは夢にも思っていなかった。だが16人の手勢のみで一夜にして城を落として見せたことで、範俊はあらためて「この男に娘を嫁がせて正解だった」と思うのだった。

半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件は、瞬く間に美濃周辺へと広がっていった。これに最も驚いたのは尾張の織田信長だ。信長は4年かけて稲葉山城を攻めていたが、未だ落とせる気配さえ見えていなかった。それを竹中半兵衛という19歳の若者が、たった16人の手勢だけで一夜にして落としてしまったのだ。

信長はすぐに半兵衛に使者を送った。そして稲葉山城を織田に明け渡せば、美濃国の半分を与えるという好条件を提示した。だが半兵衛にその提案を受けるつもりはない。そもそも半兵衛は謀反を起こしたのではなく、愚将の主斎藤龍興を諌めるために城を乗っ取っただけなのだ。それを信長に明け渡し、逆臣の汚名を背負うつもりは半兵衛にはさらさらなかった。

しかし半兵衛は信長に対しすぐに回答しようとしない。その理由は信長の使者が頻繁に半兵衛を訪ねているという噂を、龍興の耳に入れるためだ。その噂を聞きつけると龍興は案の定慌て、自ら半兵衛に頭を下げて城の返還を求めた。すると半兵衛は、今回の稲葉山城乗っ取りに関わったすべての者の責任を問わないということを条件に、あっさりと城を明け渡した。そして自らは家督を弟重矩に譲り、自らは晴耕雨読の隠遁生活へと入ったのだった。

この出来事以来、竹中半兵衛は「今楠木(現代の楠木正成)」と称されるようになった。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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竹中半兵衛と牛に関する逸話は別の巻にてすでに紹介した。今回は半兵衛の馬にまつわる名言をご紹介したい。竹中半兵衛は僅か16人の手勢で稲葉山城を陥落させて以来、その名は日本全国に知れ渡っていた。まさに日の本一の知将であり、竹中半兵衛を幕下に加えたいと考える大名は一人や二人ではなかった。


それだけの名軍師であるにもかかわらず、半兵衛はいつも貧相な馬に乗って戦場に赴いていた。竹中半兵衛ほどの武将であれば、名のある名馬に乗っていても違和感はない。周りももっと良い馬に乗ってはどうかと話していたようだ。それでも半兵衛は、逆に身分にそぐわない駄馬に跨り続けた。それは何故なのか?!

竹中半兵衛の頭の中は常に戦場にあった。何を取っても戦場に立っていることを想定し物事を考えている。馬にしてもそうだった。もし名のあるような名馬に乗ってしまっては、その馬を失いたくないあまりに勝機を失ってしまうこともある。半兵衛が最も嫌ったのがそれだった。

しかし乗っているのが駄馬であれば、勝機となればすぐにでも馬を捨てて戦場を駆け回ることができる。仮にその馬に槍を刺されても、逃げ出されてしまっても、駄馬などいくらでも手に入る。そう思えるからこそ勝機を握り損なうことなく、好敵に対し瞬時に槍刀を向けていくことができる。

だがもし名馬に乗っていたらどうだろうか。もし場所を考えず馬を乗り捨てたら、従者は馬に追いつけるだろうか?馬を敵に盗られないだろうか?などと余計なことを考えてしまい、好機で瞬時の判断が鈍ってしまう。

大大名ならいくらでも名馬は手に入る。戦場で名馬を失ってしまっても、また次の名馬に乗ることができる。だが城代や、その家臣という程度では名馬などそうそう手に入れることはできない。そのため戦場で名馬に乗ることは戦う上で足手まといになると半兵衛は語っている。

この逸話は江戸時代に書かれた『常山記談(じょうざんきだん)』に収録されているのだが、半兵衛は10両持って馬を買いに行ったなら、5両の馬を買うように勧めている。その理由は戦場で馬を失ったら、残りの5両を使ってまた馬を買えるからだ。このように考えていれば、戦場で馬を理由に勝機を失うこともなくなる。さらに半兵衛はこのことは馬だけではなく、他のことにも当てはまると言葉を締めている。

竹中半兵衛は牛に乗って考えたり、身分にそぐわない駄馬に乗ったり、身形は普通であっても行動に関してはやや傾(かぶ)いていたようだ。だが人とは違う行動、物の見方を普段からしていたからこそ、半兵衛は時に奇想天外な戦術によって味方を勝利に導くことができたのかもしれない。
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戦国時代、「昔楠木、今竹中(昔は楠木正成だったが、現代では竹中半兵衛が一番)」「今楠木(現代の楠木正成)」と、楠木正成同等の評価をされていた軍師がいた。それが竹中半兵衛重治だ。竹中半兵衛が戦略を練った戦は、斎藤家時代、羽柴家時代とほとんど負けがなかった。もし竹中半兵衛の勝率を出したならば、間違いなく毛利元就や上杉謙信の上を行くことになる。だからこそ天才軍師の名を欲しいままにできたのだ。


竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、竹中重元の次男として生まれた。重行という兄がいたのだが、詳しい資料は残されていないが、どうやら戦で負った怪我で体が不自由になり、次男の重治が竹中家を継ぐことになったようだ。

だが竹中家では当初、三男の重矩(しげのり)に家督を継がせたいという声もあった。その理由は半兵衛が武将としてはあまりに物静かで、肌も青白く女性のような印象があったからだと言う。一方重矩はいわゆる武将タイプの人物で、武芸にも優れていた。しかし重矩に家督を継がせたいと考えた家臣たちの考えは、永禄7年2月6日に変わることとなる。

この日竹中半兵衛は、織田信長がいくら攻めても落とせなかった稲葉山城を、僅か16人の手勢だけで一夜にして落としてしまった。この稲葉山城乗っ取り事件により、家臣たちは半兵衛を見る目を変えざるをえなかった。またこの事件により竹中半兵衛の名が日ノ本中に轟くことになる。

まさに智謀に富んだ名軍師だったわけだが、しかし体は元来強くはなかった。それもあり36歳という若さで結核により亡くなってしまう。若くして亡くなったこの姿も、歴史ファンの心を引き寄せる要因なのだろう。

竹中半兵衛には様々な逸話が残されているが、その大半は後世の創作だと言われている。例えば垂井で隠棲していた際に、三顧の礼によって木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に迎えられたという話だが、これは三国志に登場する劉備が諸葛亮を幕下に加えるため、三度諸葛亮の屋敷を尋ねたという逸話の焼き増しとなる。竹中半兵衛自身が実際、どのような流れによって織田の寄人になったのかは正確にはわかっていない。

あまり有名な話ではないが、牛に関する逸話が残っている。ある時羽柴秀吉の陣屋は出陣を前にしててんやわんやとなっていた。誰もが慌ただしく動き回っており、まったく落ち着きのない雰囲気となっていた。だがひとりその雰囲気を壊す者がいた。もちろん竹中半兵衛だ。皆が忙しく動き回っている中、何と半兵衛はのんびりと牛に跨っていたのだ。

家中の誰かが「なぜこんな忙しい時に牛に乗っているのです?」と尋ねると、半兵衛は「忙しい時ほど牛に乗ってゆっくりと考え、冷静になる必要がある」と答えたと言う。半兵衛のこの言葉により羽柴陣営は落ち着きを取り戻していった。

冷静沈着という言葉はまさに、竹中半兵衛のためにあるようなものだ。いつでも冷静に物事を考え、戦に勝っても決して浮き足立つことなく、勝ったからこそ兜の緒をきつく締め直す、それが竹中半兵衛という人物像だ。

すぐに調子に乗るタイプの羽柴秀吉に対し、どんな時も冷静さを欠かない竹中半兵衛、こうして見ると非常にバランスの取れた良きパートナーだったのかもしれない。そして羽柴秀吉の人柄に惚れこんだからこそ、半兵衛は織田信長の家臣として仕えるのではなく、あえて織田の寄人として秀吉の幕下に加わったのだろう。

そして稲葉山城乗っ取り事件もあり、信長も半兵衛の力量を高く買っていたからこそ、半兵衛の我儘を聞き入れ、家臣ではなく寄人として与力となることを認めたのだろう。そうじゃなければあの織田信長が、たかだか竹中家の当主というだけの人物の我儘を許すはずはない。

竹中半兵衛はまだ謎多き武将ではあるが、戦国時代記では今後もこの人物を深く掘り下げていきたい。なぜなら筆者自身が最も尊敬している人物が竹中半兵衛であるからだ。
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天正6年(1578年)、荒木村重は羽柴秀吉の三木城攻めに加わっていた。だがその10月、突如として村重は主君織田信長に反旗を翻し摂津有岡城に籠城してしまう。なぜ村重が信長を裏切ったのかは諸説あるが、ハッキリとした理由はわかっていない。一般的には信長の苛烈な性格に不安を抱き、毛利の後ろ盾てを得たことで謀反を起こしたとされている。

同じ頃、黒田官兵衛は秀吉の与力として播州(播磨)の案内役を買って出ていた。この頃の官兵衛はまだ小寺政職に仕えており、小寺姓を名乗っていた。官兵衛の進言により主君小寺政職は織田への従属を決めていたのだが、この時人質として秀吉のもとに送られたのは官兵衛の子、松寿丸だった。後の黒田長政だ。

村重の謀反を知ると、官兵衛は村重を説得するために有岡城に単身乗り込んだ。だがその官兵衛がいつまで経っても戻って来ない。その間にも村重は毛利と連携を取り、一時は織田側に靡いていた播州の国衆たちが毛利に付くように状況を変えようとしていた。これに怒りを露わにしたのが信長だった。信長はこの時、知将官兵衛が裏切り、荒木村重に知恵を貸していると判断した。だからこそ音沙汰もなく官兵衛が有岡城から戻って来ないのだ、と。

通常であれば使者は役目を果たすとその後すぐに戻るか、切り捨てられるかのどちらかだ。戦国時代に於いて使者を切り捨てるというのは宣戦布告を意味していた。だが官兵衛の場合はそのどちらでもない。だとすれば、一般的に考えれば官兵衛が村重側に付いたと判断することができる。

信長は秀吉に対し、人質であった松寿丸を切り捨てるよう命じた。当然と言えば当然である。人質とはそのための存在であり、官兵衛が裏切ったと判断されたならば、その人質を殺すのが戦国時代の当たり前のやり方だ。だが松寿丸はまだ9歳と幼かった。秀吉は居城である長浜城で正室のおねに松寿丸を預けていた。そして子に恵まれなかったおねは、我が子のように松寿丸を可愛がっていた。

秀吉もおねがどれだけ松寿丸を可愛がっているのかをよく知っていた。だからこそ信長の松寿丸処刑の命令をおねに伝えるのがあまりにも心苦しかった。そしてそんな秀吉の苦悩を、竹中半兵衛がそばで見守っていた。

その半兵衛が自ら松寿丸の処刑を買って出た。松寿丸を長浜城から自らの本拠、美濃菩提山城へと連れて行った。そして信長にはその後すぐ、松寿丸が処刑されたことが伝えられた。秀吉もおねも大層悲しんだことだろう。例え官兵衛が裏切り者だったとしても、特におねには松寿丸をこのまま我が子として育てたい気持ちがあったはずだ。だが主君信長の命に背くわけにはいかない。だからこそ断腸の思いで、半兵衛に松寿丸の処刑を任せるより他なかったのである。

官兵衛が有岡城に入ってからちょうど1年が過ぎた天正7年10月19日、荒木村重が篭る有岡城はついに落城した。しかもその形が酷く、村重が一族や家臣を残して逃亡するというものだった。そのため一族たちは女子供を含め、全員が処刑されるという最悪の結果になってしまう。

有岡城が陥落した際、狭く汚い土牢に一人の男が幽閉されていた。脚は真っ直ぐ伸びなくなっており、顔には痣ができている。この人物こそが小寺官兵衛であり、官兵衛は織田方を裏切ったのではなく、村重に幽閉されていただけだったのだ。村重には自らの味方に付くよう逆に説得されたようだが、官兵衛は決して織田を裏切ることはしなかった。この時官兵衛を土牢から救出したのは官兵衛の側近、栗山善助だった。

官兵衛は無事に救出され姫路に戻ることができた。だが官兵衛の帰りを待っていたのは、松寿丸が信長の命により処刑されたという報らせだった。官兵衛は嘆き悲しみ、まるで生きて戻った心地がしなかった。

だがその時、別の報らせが官兵衛のもとに届けられた。官兵衛が幽閉されている間に結核により他界していた竹中半兵衛の家の者からの報らせだった。官兵衛は当初半兵衛のことを慕っていたわけだが、しかし半兵衛が松寿丸の処刑を買って出たと聞き、さぞ落胆したことだろう。

竹中家からの報らせはきっと、その詫びだと思ったのかもしれない。だが真実はそうではなかった。半兵衛は処刑を買って出て、松寿丸を長浜城から菩提山城へと連れて行った。その後は半兵衛の家臣である不破矢足の屋敷に松寿丸は置かれた。

事実はたったそれだけだった。

半兵衛は、官兵衛が裏切っていないことを確信していたのだった。だからこそ自ら松寿丸を引き取り、処刑をしたと嘘の報告を行っていた。その報告に信長も満足していた。

信長の命は松寿丸を処刑することだった。だが半兵衛はその命に完全に背いた。なぜそんなことができたのか?半兵衛は自らの死期が近いことを良くわかっていた。半兵衛が自ら処刑役を買って出て、その結果信長の命に背いたとしても、もう半兵衛はこの世にはおらず、さすがの信長であっても死者を処分することはできない。半兵衛はそこまで考えて松寿丸を匿ったのだった。

官兵衛は心の底から半兵衛に対し感謝の意を示した。以降黒田家では竹中家の石餅(こくもち)の家紋を用い、半兵衛の子重門が元服した際には烏帽子親を務めている。

竹中半兵衛という人物は知略に長けた名軍師であったわけだが、最期は自分の死まで利用してしまった。そして死の間際には黒田父子を気遣う手紙まで残している。生前は官兵衛に対し時に冷たく、時に厳しく接した半兵衛であったが、その厳しさもすべて官兵衛のことを考えてのことだった。なぜなら自身亡き後、秀吉を支える軍師は官兵衛しかいないと考えていたからだ。

半兵衛と官兵衛の友情は、親の代だけで途切れることはなかった。半兵衛が他界した21年後に起こった関ヶ原の戦いでは、官兵衛の息子長政と、半兵衛の息子重門が隣り合って陣を敷くことになる。恐らく長政自身、半兵衛によって命を救われた恩を生涯忘れることがなかったのだろう。

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三木城の別所長治はなぜ羽柴秀吉を裏切ったのだろうか。この裏切りが『三木の干殺し』に繋がっていくわけだが、その理由は諸説伝えられている。別所氏の名門意識が百姓上がりの秀吉の下に付くことを嫌ったとか、織田軍の上月城攻めのやり方に反感を持ったなど、信長への信頼感の揺らぎが大きな原因だったようにも伝えられている。


原因はどれか一つではなかったのだろう。いくつもの不安要素が折り重なり、羽柴秀吉に対し反旗を翻す結果になったのだと思う。当初は別所長治も毛利ではなく、織田に味方する姿勢を見せていたのだが、まさかの急展開となってしまった。

羽柴勢による三木城の包囲が始まったのは天正6年(1578年)3月29日のことだった。だが三木城は簡単に攻め落とせるような城ではない。まず城の北側には美嚢川(みのうがわ)という天然の水堀があり、そして城自体も丘の上に建てられているため、下手に攻めれば上から鉄砲や矢の雨が降ってくる。さらには東播磨などから集まってきた7500人もの兵が城を固く守っており、力攻めをしたところで返り討ちに遭うばかりとなる。

この時秀吉の下には竹中半兵衛と黒田官兵衛というふたりの軍師がいた。だが三木城攻めが始まって間もなくすると、今度は攝津有岡城主の荒木村重が信長に反旗を翻す。村重を翻意させるために官兵衛が有岡城を尋ねるのだが、しかし官兵衛は捕らえられてしまい、地下牢に閉じ込められてしまう。

一方の竹中半兵衛は結核を患っており、戦場と病床とを行き来する日々を強いられていた。それでも竹中半兵衛は策を巡らせ、三木城を兵糧攻めにしていく。一説によればこの時、「羽柴軍は別所長治に味方したものは兵士だろうが百姓だろうが構わず皆殺しにする」という噂をわざと流し、百姓たちまで三木城内に駆け込ませたと言う。

すると三木城内は兵だけではなく百姓たちも合わさり、兵糧は見る見る減っていく。そして美嚢川を含めた兵糧の補給路は羽柴勢によりすべて封鎖されており、毛利からの兵糧補給も期待することができない。さらに羽柴勢は周辺の米商人から通常よりも高い金額で米を買い占めていた。これにより三木城内からは米が減っていく一方で、逆に補給路は一切が断たれる形となった。

これらの兵糧攻めを主導したのが竹中半兵衛であったようだ。『孫子 』の言うところの「戦わずして勝つ」を地で行くような戦法だ。羽柴勢は兵をまったく失うことなく、三木城内の兵士たちはどんどん弱っていく。米が尽きれば兵馬が食べられ、馬もいなくなればそこらへんに生えている草木をも食べ、そして餓死者の肉を貪ってもいたようだ。まさに壮絶な兵糧攻めであり、また生き地獄でもあった。

10日も何も食べていない者ばかりとなり、兵も戦うどころか立ってもいられない状況が続いていた。竹中半兵衛の策略が見事にはまり、天然の要塞と呼ばれた三木城も、内側から見る見る力を失っていく。そして炊飯の煙がほとんど上がらなくなると、秀吉はいよいよ総攻撃を命じた。

だが実際には城は攻めるまでもなく、場内の兵の命を救うことを条件にし、別所長治一族が切腹することで城攻めは天正8年1月17日に終了した。この戦いは実に22ヶ月にも及び、戦国時代で最も長期に渡った戦となった。

ちなみに有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は、天正7年10月19日に無事救出されたのだが、盟友である竹中半兵衛はその救出を見ることなく天正7年6月13日、結核により36年という短い生涯を三木陣中にて終えてしまった。秀吉は京での療養を勧めていたようだが、「戦さ場が死に場所」と自らに定めていた半兵衛はそれを聞かず、三木陣中での最期を選んだのだった。

写真:三木市内にある竹中半兵衛の墓

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