タグ「真田信幸」が付けられているもの

sanada.gif

1600年9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍は、徳川家康率いる東軍に一瞬のうちに敗れてしまった。この戦いで真田昌幸・信繁父子は西軍に味方し、真田信幸は東軍に付いていた。東軍諸将の目に信幸は、父親を裏切ってまで家康に味方した功労者として写っていた。事実徳川家康も父親と袂を分かってまで東軍に味方したことを労っている。


関ヶ原の戦いが終わると論功行賞で信幸は沼田・上田領9万5000石の大名に処せられた。関ヶ原以前は2万7000石だったため、所領は一気に3倍以上に膨らんだことになる。そしてこの頃、真田信幸は諱を信之と改めた。定説としては家康に忠義を誓うために父昌幸の「幸」の字を捨てたと言われている。だが本当にそうだろうか。

確かに松代藩初代藩主信之と、二代目藩主真田信政は「幸」の字を使わなかった。だが三代目藩主からは真田幸道と「幸」の字がすぐに復活しているのである。もし信之が本当に家康への忠義のために「幸」の字を捨てたのであれば、信之系譜の真田家の子孫にも「幸」の字は使わせなかったはずだ。

江戸幕府に於いて徳川家康は神として崇められていた。三代目藩主の代と言えば、まだまだ家康の威光が強く残っていた頃だ。その頃に「幸」の字が復活しているということは、これはもしかしたら家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないのではないだろうか。

逆に、父真田昌幸に対し罪悪感を覚えていたからこそ「幸」の字を使い続けることができなかったのではないだろうか。真田昌幸は豊臣秀吉から表裏比興の者と呼ばれるほど智謀に長けた、まさに戦国時代を象徴するような人物だった。一方真田信之は非常に義理堅く信義に厚い武将として知られている。つまり信之は非常に誠実な人物だったのだ。

信之のその人柄を思うならば、家康に忠義を示したというよりは、昌幸への罪悪感により「幸」の字を自身の諱から消したと考える方がしっくり行くような気がする。戦国時代で最も強い影響力を持っていたのは父親だった。子は父親に逆らうことは決して許されない時代であり、信之は真田家を守るためとは言え、その掟を破ったことになる。

その罪悪感から「幸」の字を捨て、さらには命を賭してまで父昌幸と弟信繁の赦免を大坂の陣が始まるまで求め続けたのではないだろうか。そして父と弟が九度山に幽閉されていた頃も、決して援助を絶やすことはしなかったという。

家康が時に残酷な智謀を用いることは信之もよく知っているはずだった。それでも信之は父と弟と運命を共にすることはせず、真田の家を守るために家康に味方をするという決断を下した。信義に厚い信之の人柄を思うならば、この決断はまさに断腸の思いであったはずだ。父の落胆ぶりにも心を痛めたことだろう。

真実に関しては今となっては知りようもない。だが三代目藩主から早々に「幸」の字が復活している事実を見つめれば、これは決して家康への忠義のために「幸」の字を捨てたわけではないと思えるようになる。もし本当に家康に対する忠義により「幸」の字を捨てたのであれば、松代藩を預かっている限り真田家で「幸」の字を使うことはなかったはずだ。

しかし大坂の陣を前にし、信之が心を千切る思いで捨てた「幸」の字を信繁が拾った。まる兄信之の心の痛みを背負い預かるかのように信繁最期の戦いとなった大阪の陣、信繁は真田幸村と名乗り徳川家康と戦ったのだった。敵味方となっても、家が二つに分裂しても、最後は心で真田家は一つに戻ったのである。
sanada.gif

小野お通という人物は長い間架空の人物だとされていた。戦国時代の才女として名高い女性だったわけだが、お通という人物が実在したことを示す物証が何一つ見つかっていなかったからだ。しかし昭和に入って間もない頃、真田信之がお通が宛てた書状が発見され、初めてその実在が確認された。


実は小野お通という人物はふたり存在している。一人目は真田信之と昵懇の間柄だった初代お通。そしてもう一人は初代お通の娘であり、真田信之の次男信政の側室となった二代目お通だ。今回は一般的に良く知られる、初代お通について書き進めていきたい。なお2016年大河ドラマ『真田丸』では八木亜希子さんがお通を演じるようだ。

お通は1568年生まれという説が有力とされている。真田信之が1566年生まれであるため、ほとんど同世代ということになる。お通と信之が出会ったのは、信之が父昌幸に従い上洛した時だったと言われている。つまり1587年3月あたりだと推測され、この時信之は21歳、お通は19歳だった。

お通という人物は詩歌、書画、管弦、茶道、舞踊などに精通していたと伝えられている。当初信之はそのような文化道の教えを請うため、お通の元に通っていたようだ。だがそこから徐々にふたりの間には他者が入り込めない絆が生まれていく。

様々な文化道に精通していたお通は、淀殿(茶々、秀吉の側室)、北政所(秀吉の正室)に仕えていたという説も伝わる。正確なところは詳細な資料が残されていないため不明ではあるが、真田が上洛し秀吉に謁見した際にふたりが出会ったのだとすれば、淀殿や北政所に仕えていたという説はあながち史実からそう遠くはないのではないだろうか。

お通を信之の側室だと伝える説もあるが、晩年は離れ離れで暮らしたふたりの生活を考えれば、側室という間柄ではなかったのではないだろうか。どちらかと言えば愛人関係に近く、信之にとっては何でも話せる親友がお通だったと考えた方が自然であるように感じられる。

その根拠は、晩年信之がお通に宛てて認めた手紙の内容だ。1622年11月18日、信之はお通宛に手紙を認めている。その内容は世間話に始まり、身の回りの世話をしてくれる器量が良く美しい女性(若い側室)を2〜3人紹介して欲しい、という内容にまで至っている。この時信之は56歳、お通は54歳。

もしお通が信之の側室であったならば、お通は信之の国替え後であっても近くにいただろう。だが上田藩から松代藩へと国替えとなった後、お通が信之に従った形跡は見られず、そもそもお通はずっと上方にいた可能性も高い。そして信之が認めた手紙には「こうけん殿が存命なら」という記述があるが、こうけんという人物がお通の夫だった可能性が高いようだ。となるとやはり、夫がいる女性が側室になるという可能性は消すべきだろう。

思いの丈を素直に書き過ぎたせいだろうか、信之は手紙の最後に「読んだらこの手紙は燃やして欲しい」と書き加え文を締めている。だが信之の孫である真田信就を先祖に持つ家で、この手紙は昭和に入り発見された。ということはお通はこの手紙を燃やさずに大切に保管していたということになる。

戦国時代の女性に関する資料は、よほどの女性でなければほとんど残っていないことが普通だ。お通も同様であり、お通の実在を示すものもこの手紙のみとなる。だが信之が気取ることなく心の内をすべて打ち明けている文面を見る限り、信之とお通がよほど親密な間柄だったことが良くわかるのである。
sanada.gif

関ヶ原の戦いの直前、真田家は二つに分裂することになる。世に言う『犬伏の別れ』となるわけだが、真田昌幸・信繁父子は上杉景勝に味方し、真田信幸は徳川家康に味方することとなった。さて、二つに分裂したと上述したが、しかし実際には分裂してしまったわけではなかった。実は犬伏の別れの前から、真田家は二つに分かれていたのである。


関ヶ原の戦い直前の時点で、真田昌幸は上田城、真田信幸は沼田城を居城とし、それぞれ独立した大名としての立ち位置となっていた。沼田城は一時北条家の城となっていたが、小田原征伐により北条が滅ぶと沼田は徳川の城となった。この時の真田家は徳川家の与力とされていたのだが、北条家滅亡後、沼田城は徳川家康によって真田信幸に与えられ、この時から信幸は正式に徳川家付属の大名となったのである。関ヶ原の戦い10年前の出来事だった。

通説では、関ヶ原の戦いで東軍・西軍のどちらが勝利しても真田家が存続するよう、昌幸があえて真田家を東西に振り分けた、と語られているものもある。だがこれは史実とは異なる。関ヶ原の戦い時点で、真田昌幸と真田信幸は父子という間柄ではあるものの、それぞれ独立した別個の大名家だった。つまりこの時の昌幸には、信幸の行動をコントロールする権限はなかったのである。

だが信幸はしきりに父昌幸に、徳川家に味方するようにと説得を繰り返した。この交渉は第二次上田合戦が開戦するまで続けられたが、昌幸の家康嫌いは半端ではなかった。最後の最後まで首を縦に振ることはなく、恩義を感じていた上杉景勝に味方する道を選んだ。元はと言えば上杉景勝の助力がなければ、沼田城はもっと早くに真田の手から離れてしまっていた。沼田を守るために力を貸してくれた景勝に対し、昌幸は味方すると決意していたのだ。

ちなみに縁戚関係が犬伏の別れに繋がったとする説もある。真田昌幸の正室と西軍石田三成の正室は姉妹であり、真田信繁の正室は西軍大谷吉継の娘だった。そして真田信幸の正室は東軍本多忠勝の娘。これにより真田家が東西に別れたとする説もあるが、戦国時代で最も優先されるのは家を守ることであり、婚姻のほとんどは家を強くするための政略結婚だった。

そのためもし婚姻関係が家を守るために足枷となるようであれば、離縁させることも日常茶飯事だった。つまり婚姻関係だけでどちらの味方に付くか判断することは、当時一般的にはなかったことだ。ただし人質を取られている場合は話は別だ。人質を取られていてはそちらに味方するしかなくなってしまう。

真田昌幸からすれば上杉景勝は沼田を守るために力を貸してくれた盟友。家康が上杉討伐に出かけた隙を突き、上杉と共に南北から家康を挟み撃ちにしたいと考えていた。こうして家康を討つことこそが、真田家を守る最善の策だと考えていた。

一方の真田信幸は、家康は沼田城を与えてくれ、自分を独立大名として取り立ててくれた恩義ある大大名だった。しかも秀吉の死後、最も力を持っている人物が家康であり、家康に歯向かえば他家など簡単に潰せてしまうほどだった。上杉家にしても、もし徳川家と単独で戦えば、当時の上杉家には徳川に勝つ力などなかった。だからこそ信幸は家康に味方することによって真田家を守ろうとしたのである。

これが犬伏の別れを生み出してしまった真相だ。通説のように昌幸と信幸が喧嘩別れしたわけでも、婚姻関係に縛られたわけでもない。それぞれ独立する大名となっていた真田昌幸と真田信幸父子が、真田家を守るための最善策をぶつけ合い、結果的に折り合いがつかず真田家は二通りの道を取ることになってしまったのである。
sanada.gif

真田家と言えば幸隆、昌幸、信繁(幸村)ばかりが注目されるが、実はもう一人隠れた名将の存在がある。それは信繁の兄である真田信幸だ。真田信幸は信濃の上田藩、松代藩それぞれの初代藩主となり、真田の名を後世にまで残し続けた武将だった。関ヶ原の戦いでは父、弟と袂を別つ覚悟を決め東軍に味方した。だがこの判断が真田の名を残す結果に繋がった。


武勇伝では弟である真田信繁ほど目立った逸話は残されていない。だが真田信幸は実は、父や弟を凌ぐほどの槍働きをした武将なのである。それは天正10年(1582年)8月、つまり本能寺の変から2ヵ月後のことだった。

本能寺の変により激動していた信濃に於いて、いよいよ北条が真田の沼田城奪取に本腰を入れた。北条はまず5000人の兵を率いて手子丸城を攻めた。手子丸城を守っていた大戸真楽斎(おおとしんらくさい)は奮闘するものの数の上で北条に圧倒され、最後は手子丸城に籠城し、自刃し果ててしまった。結局わずか3日で手子丸城は北条の手に落ちてしまった。

この時17歳の真田信幸は岩櫃城を任されていた。北条はこのまま沼田を攻めるか、その前に岩櫃城を攻めるかを悩んでいた。
すると信幸はその考えている隙を突くような見事な判断力と攻めを見せたのである。北条5000に対し信幸の軍勢は800でしかなかった。まともに戦ったのでは勝ち目はない。

信幸は唐沢玄蕃に自らの鎧を着させ出陣させた。すると北条方は唐沢玄蕃を真田信幸だと勘違いし追い駆けていく。そして追い駆けていくその横腹を狙うかのように、隠れていた信幸本隊が北条勢に攻めかかった。陣形の真横から突かれたことにより北条勢は統制を失ってしまう。

しかも信幸と勘違いし唐沢玄蕃を追い駆けて行った北条勢は戻って来られない状況になり、北条5000の大群は散り散りになってしまった。すると信幸は知り尽くした手子丸城の穴を突き手勢を手子丸城内に侵入させ、放火をさせながら「味方に裏切り者が出た!」と吹聴して回らせた。

これにより手子丸城内の北条勢はパニックに陥り、同士討ちをしてしまうほどの始末となった。北条勢の統率はまったくなくなってしまい、逃亡する者も続出した。

この時真田勢の中に、信幸と同じ年齢の一場茂右衛門という若武者がいた。彼は皆に混じって戦おうとはせず、戸口の前にずっと立っていた。そして戸を開けて北条勢が手子丸城から出てきたところを狙い、次々と斬り捨てていった。一人で17人の首を討ち取ったという。

5000の北条勢は総崩れとなってしまった。しかも相手はたった800の軍勢であり、この戦いで北条勢が破れることなど誰も想像していなかった。だが真田信幸はわずか800の軍勢のみで5000の北条勢と戦い勝利し、しかも奪われていた手子丸城をすぐに奪還して見せたのだった。この活躍には父昌幸も大いに感服したようで、信幸に対し太刀や脇差し与えたという。

なおこの戦いで北条勢として戦った富永主膳は、のちに徳川政権の奉行衆となった。そして信幸と味方同士になると、この時の手子丸城の戦いでの信幸の奮闘振りを皆に対し語って聞かせたらしい。敵だった富永主膳から見ても、この戦いでの真田信幸の采配は見事だったようだ。

真田家の中ではあまり目立たない信幸ではあるが、このように5000人の敵をわずか800人で撃退し城を奪還するなどの槍働きも見せていた。軍略家として優れていたのは父や弟だけではなかった。信幸もまた、17歳の頃から優れた軍略家としての姿を見せていたのである。
sanada.gif

天正18年(1590年)の小田原征伐以降、真田家に大きな動きはほとんどなかった。しかし文禄元年(1592年)2月、いよいよ豊臣秀吉の朝鮮出兵を実行に移すため、真田昌幸は徳川家康、上杉景勝と共に肥前名護屋城に赴いている。ちなみに名護屋城とは朝鮮出兵の拠点として、天正19年10月から普請され、短期間で仕上げられた城だった。


名護屋城には7万3千もの兵が集結した。その中から実際に渡海して行く部隊人数が細かに定められたわけだが、真田父子は700人の兵を持ち、渡海する際は500人連れて行くようにと定められた。だが実際に真田父子が渡海することはなく、上述の通り家康、景勝と共に名護屋城で秀吉の身辺警護を行い、最後まで渡海命令が下されることはなかった。

この時徳川家康、上杉景勝と近い扱いをされるということは、秀吉の中で真田昌幸の存在はかなり大きかったのだろう。そして戦術家としても、小田原征伐以来、秀吉は昌幸を高く評価していたようだ。大名としての格から、さすがにその後大老になるようなことはなかったが、しかし一連の処遇を見ていくと、秀吉が昌幸のことを高く買っていたことが良くわかる。

同じ戦術家として豊臣家には黒田孝高という存在もまだあったわけだが、しかし秀吉に対し耳の痛いこと言う軍師であるためか、この頃の黒田孝高は秀吉からは遠く離されてしまっていた。その黒田孝高の代わりとして、新たな豊臣恩顧の小大名であり、知略にも優れた真田昌幸を置いておきたかったという気持ちが秀吉の中にはもしかしたらあったのかもしれない。

さて、文禄の役では渡海は命じられなかった真田父子だったが、文禄の役が終わると、その替わりとなる役割が待っていた。それは伏見城の普請役だった。伏見城は秀吉が隠居後に暮らすつもりの城で、大坂と京のほぼ中間に作られたものだった。この城の普請を一部担ったわけだが、真田家は木材の提供と1680人(知行高の1/5)の労働者の提供を求められた。

だが文禄の役で実際に渡海させられるよりは遥かにましと言える勤めだった。しかも伏見城の普請、そして名護屋城への出向の恩賞として、家督を継いでいた真田信幸には下従五位伊豆守と豊臣姓が与えられた。真田信繁(幸村)にも下従五位左衛門尉と豊臣姓が与えられたと伝えられてはいるが、しかし信繁の場合はそれを証明する書状は残されてはいない。

その後文禄4年には秀吉が草津温泉への湯治に出かけるということで、真田家はその饗応役を任ぜられたのだが、実際に秀吉が草津に赴くことはなかったようだ。秀吉はこの3年後に病死してしまうわけだが、もしかしたら伏見から草津へ出かけられないほど、この時の秀吉は体が弱っていたのかもしれない。もしくは慶長の役に向けての準備が忙しかったのだろうか。

このように、小田原征伐以降は真田家にはそれほど目立った動きはない。文禄の役では実際に出陣には至らず、文禄の役後は伏見城の普請を担当した程度だった。真田家は最初から最後まで徳川家や北条家などに振り回されていたわけだが、その北条家が滅亡した小田原征伐から少しの間だけは、因縁の沼田領も安堵されていたこともあり、真田家にとってはつかの間の平穏の時だったのかもしれない。
sanada.gif

真田と徳川による第一次上田合戦が始まったのは天正13年(1585年)8月2日だった。戦いが始まる前、真田昌幸は上田城下に千鳥掛けを仕掛けていた。千鳥掛けとは柵を斜めに並べ配置し、まるで迷路のように敵の行く手を阻む防衛線のことだ。この千鳥掛けを仕掛けた上で、昌幸は徳川勢を上田城内に誘き寄せた。


この時上田城を攻めたのは鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉で、彼らの下には信濃勢や甲州勢など武田の旧臣たちが付けられ、総勢7000の軍勢となっていた。対する上田城に籠る真田勢は2000程度で、数の上では真田勢が圧倒的不利な状況だった。だが7000という大所帯が徳川勢を逆に不利に追い込んでしまう。昌幸が仕掛けた千鳥掛けにまんまとはまってしまったのだ。

徳川勢は誘き寄せられるまま上田城内に侵入していくと、本城まで間近の二の曲輪で千鳥掛けによる迷路に迷い込んでしまった。進むことも戻ることもできず兵は右往左往している。徳川勢はやむなく一度城外に戻り体勢を整えることにした。この時徳川勢は放火してから城下に出ようともしたらしいが、結局味方への損害も鑑みられ火は放たれなかった。だが千鳥掛けを縫うように退いて行く徳川勢の動きを謀将真田昌幸が見逃すはずはなかった。

徳川勢が上田城から出ようとするその背中を昌幸は急襲した。するともう徳川勢は大混乱に陥る。後ろからは真田勢が追い打ちをかけてくるし、出て行こうとする城下町には真田自ら放火し、徳川勢は退くことも進むこともできなくなってしまった。それでも何とか城門まで退くと、今度は上から岩や大木、火の着いた松明が徳川勢に向け次々と投げ込まれた。徳川勢は「卑怯だ!」と皆喚くが真田勢は意に介さない。もはや人対人の戦ではなく、ゲリラ戦の様相となり、どんどん岩などを投げ込んで行った。だが真田昌幸の謀略はこれだけではなかった。

昌幸は百姓たちを城下町周辺に忍ばせておき、紙で急拵えした真田の旗を掲げさせた。これ見た徳川勢はさらに大混乱に陥り、完全に包囲されたと錯覚してしまった。徳川勢がここから体勢を整えることなど、もうほとんど不可能に近かった。大久保忠教は上田城から退く際に、やはり火を放っておくべきだったと後悔したと言う。

だが真田の攻撃はまだまだ終わらない。命辛々上田城を出た徳川勢を待っていたのは、砥石城から援軍に駆けつけた昌幸の長男、真田信幸の部隊だった。もはや徳川勢にできることと言えば逃げることだけだ。部隊はそれぞれ壊滅状態で、軍としてはまるで機能していない。それでも何とか信幸の部隊を振り切った徳川勢だったが、神川まで落ち延びるとさらなる悲劇が待っていた。

この戦いが始まる前まで、上田は連日の大雨に見舞われており、川はどこも増水していたのだ。そんな増水している神川を渡っている最中に、鉄砲水が徳川勢を襲ったのだった。これにより徳川勢には多くの溺死者が出てしまう。最終的に7000の兵のうち1300人が命を失ってしまったと伝えられている。だがこの1300という数は、真田信幸が家臣に送った書状に書かれていたものであり、かなり誇張され書かれたものだと思われる。

一方徳川方の『三河物語』には300人の損害と書かれており、これもやはりかなり少なめに書かれている。ちょうど中間をとるならば、実際には800人前後の損害だったのではないだろうか。それでも兵の内11%が戦死してしまったのだから、これは非常に大きな損害だったと言える。しかも相手はたかだか2000の真田勢だったのだからなおさらだ。なお真田勢の被害は40人程度だったと伝えられている。

ちなみに第一次上田合戦には、上杉家に人質として送られていた昌幸の次男弁丸(真田信繁、通称幸村)も参戦していたようだ。小説やテレビドラマなどの物語では、上杉景勝が義を以って信繁を信じ、人質として再び戻ってくることを条件にし、ほとんど無条件での参戦を許していることが多いだ。だが近年の歴史家たちの研究によれば、信繁が参戦する代わりに、母親である山之手殿(昌幸正室)が一時的に海津城に人質に出されていたことがわかってきたようだ。つまり上杉景勝は戦国時代随一の義将ではあったが、決してお人好しではなかったということだ。

さて、上田城の攻防後も徳川は真田に味方した丸子城の岡部長盛を攻めるなど、20日間ほど小競り合いを繰り返した。だがその最中に重臣石川数正が出奔し、羽柴秀吉側に寝返ってしまった。これにより徳川家康は、真田昌幸を相手にしている場合ではなくなってしまい、8月28日になると上田城攻めから完全撤退していった。これにより第一次上田合戦は、完全なる真田昌幸の勝利でを幕を閉じたのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』第13話 決戦の史実