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惟任退治記現代語訳-戦国時代記編

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村井貞勝は本能寺の門外すぐの場所に住んでいた。本能寺での騒ぎを耳にして初めは喧嘩かと思い、それを鎮めようと着の身着の儘外に走り出て様子を見てみたがその騒ぎは喧嘩によるものではなく、本能寺が明智光秀の軍勢二万に取り囲まれている騒ぎの音だった。村井貞勝はどうにか本能寺の中に入ろうと色々試みたが適わず、織田信忠の陣所となっていた妙覚寺まで急いで走り事態を信忠に伝えた。

信忠はすぐにでも本能寺に馳せ参じ父と共に戦い、最後は父と共に腹を切ると家臣たちに話したが、明智軍の包囲が厳重であったため、翼でもなければ本能寺の中に入ることはできそうになかった。まさにこれこそ咫尺千里しせきせんりの裏切りとも言えるものだった。
※咫尺千里:すぐ近くなのにものすごく遠くに感じること

信忠は妙覚寺は戦をするには不向きであるため、他に近くで戦えて最後は自刃できる場はないかと家臣に尋ねると、村井貞勝は誠仁親王(正親町天皇の息子)がおいでの二条御所が良いと言い、信忠を二条御所まで案内した。すると誠仁親王は輿に乗って内裏にお移りになり、信忠は五百人の兵と共に御所に入った。

明智軍に遮られたことにより、二条御所に馳せ参じることができた信長の馬廻はわずかに一千騎ほどで、信忠のもとにいたのは弟の織田又十郎信次、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福富平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎幸久、赤沢七郎右衛門、斎藤新五、津田九郎次郎信治、佐々川兵庫、毛利新助、塙伝三郎、桑名吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八ら歴々の侍たちであり、彼らは死を覚悟し明智の軍勢が攻め入るのを待ち構えていた。

明智光秀は、主君織田信長が自害し本能寺に火がかけられたのを見ると安心し、織田家の家督を継いでいた信忠の居場所を尋ねた。すると信忠は二条御所に立て篭もっているとのことだった。それを聞いた光秀は兵を休ませることなく二条御所に急行した。しかし二条御所ではすでに死を覚悟した侍たちが大手門を開き、弓・鉄砲隊に前面に構えさせ、他の兵たちも思い思いに武器を手に取り前後を守っていた。

明智軍の先駆けが馬具も整えないまま攻めかかると、矢と鉄砲が次々と放たれてきた。それにたじろぐ明智軍を見ると、信忠の兵は内から一気に攻め出し、押しては退いて、退いては押すの攻防を数時間続けながら戦った。明智軍は武具をしっかりと締め直し、まだ戦える兵に代わるがわる攻めさせた。一方信忠の兵は素肌に帷子だけをまとった軽装で勇ましく善戦を見せたのだが、明智軍は長太刀や長槍を揃えて攻撃してきたため、こちらで五十人、あちらで百人と次々と討ち倒され、遂には御殿のすぐ近くまで攻め入ってきた。

信忠と信次兄弟は腹巻をまとい、百人ばかりの近習は具足をまとい戦った。そして信忠はその中でも一番に打ち出て、十七〜八人の敵兵を討ち取っていった。また、近習たちも果敢に攻め出す信忠に負けじと、刀で火花を散らしながら戦い、敵を方々に蹴散らしていった。

その際明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次ら明智軍屈指の侍たち数百人が一気に斬りかかってきた。信忠はそれを見るとその中に飛び込み、これまで稽古してきた兵法、秘伝の術、英傑一太刀の奥義を繰り出し、次々と敵兵を薙ぎ倒していった。すると孫十郎、三右衛門、清次の首は信忠により次々と刎ね落とされていった。そして近習たちも力の限り太刀を振り続け、御所に攻め込んできた明智軍をことごとく討ち果たしていった。

もう何も思い残すことなく最期の戦を戦い切り、父信長と共に逝こうと二条御所の四方に火を放ち、御所の中心まで退くと十文字に腹を掻き切った。他の精鋭たちも熊や鹿の毛皮で作った敷物を並べ、その上で信忠を追うように腹を切り、皆一斉に炎に包まれていった。信長は四十九歳、信忠は二十六歳であり、悼み惜しむべしと民の誰しもが涙を流した。

ところで、明智光秀と同郷で美濃出身の松野平介一忠は、その夜は京の都の外にいた。そして夜襲の報せを耳にし駆けつけたが間に合わず、到着した時に本能寺での戦はすでに終わっており、信長もすでに自害したと聞くと、諦めて妙顕寺まで走り、追腹を切ろうと覚悟を決めた。その時斉藤利三が一忠を明智側に勧誘したが、一忠は信長に恩義があると言いそれを断り自刃した。一忠は元々は医者であり、文武両道の優秀な男だった。普段から歌道もたしなみ、侍になったのちも学問を怠ることをしなかった。そして以下がその一忠の辞世の句である。

そのきはに 消ゑ残る身の 浮雲も 終には同じ 道の山風

手握活人三尺劔、即今截斷尽乾坤
(手に我の命を助けた約90cmの刀を持ち、今まさに天と地を斬り断つ)

このような句を残して腹を切ると臓腑を引き出しながら朽ち果てた。まさにこの時代では他に類を見ない無双の働き振りだった。人々は一忠ん最期を聞くと涙を流し袂を濡らしたものだった。

明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

織田信長の負の定説は秀吉が書かせた捏ち上げ

織田信長という人物は冷酷で、男色でもあったという定説が現在では当たり前のように知られている。だが明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変 431年目の真実 』という本を読むと、それは羽柴秀吉が本能寺の変後に作ったイメージに過ぎないことがよくわかる。

明智憲三郎氏は本能寺の変を起こした明智光秀の子孫であると言う。だがこの本は決して先祖を擁護するような感情論的な本ではない。本能寺の変を徹底的に歴史捜査し、推測ではなく、戦国時代に書かれた書状や日記などで証拠を固めながら書かれた良書だ。

当サイト戦国時代記では、本能寺の変にまつわることは主にこの本の情報を基にし、今までの定説に縛られることなく事実のみを発信していきたい。

信長の時代に生きた人々の日記などからは、信長は決して冷酷な人間ではなかったことがよくわかる。例えば本能寺の変であるが、明智光秀の謀反を知り、信長が真っ先に取った行動は女子供など弱者を逃すことだった。

そして信長に男色のイメージがつけられたのは羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』によってだった。惟任日向守とは明智光秀のことで、秀吉自らが逆臣光秀を討ったことを宣伝するために書かせたいわゆるプロパガンダ本だ。森蘭丸は歴史好きであれば誰もが知る名だと思う。だが蘭丸と書かれたのは『惟任退治記』によってで、秀吉は蘭という字には男色のイメージがあるため、森乱丸を森蘭丸とわざと変えて書かせたようだ。

さらには女遊びが好きだったという信長のイメージも、やはり本能寺の変後に秀吉が書かせたことだった。明智憲三郎氏の著書によれば、秀吉が織田政権を奪取しやすくなるよう、信長を負のイメージで固めたのだという。その証拠に関しては上述した本を読んでいただきたいところだが、読めばなるほど納得できる。

信長という人物は確かに激情家ではあったようだ。だが決して冷酷な人間でも男色でもなく、女にだらしのない人物でもなかったのだ。今日までに作られた信長の負のイメージは、すべて秀吉が信長の死後に作り上げたものだったのだ。

織田信長は天下統一を直前にし、最も信頼を寄せていた家臣に裏切られ49歳でこの世を去った。もし本能寺の変が起こっていなければ徳川幕府が開かれることはなく、きっと織田幕府が開かれていたのだろう。だが織田幕府が徳川幕府ほど長くは続かなかったであろうことは、当時信長が考えていたことを思えばよくわかる。それについてはまた別の巻にて書いていきたいと思う。

明智家

本能寺の変が起きた際には鳥羽にいた明智光秀

本能寺の変を舞台にしたテレビドラマや映画を見ると、必ず明智光秀が本能寺の門の外で軍配を振っているようなシーンが描かれている。だがこの光秀の姿は事実ではなかった可能性があり、これに関しては長い間専門家たちも議論していると言う。

本能寺の変が起こったのは1582年で、それから87年後の1669年に書かれた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という古文書があるのだが、実はこの古文書に「光秀は鳥羽に控えたり」という記述があるのだ。この古文書は関屋政春によって書かれたもので、斎藤利宗が井上清左衛門に語った言葉として書かれている。

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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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麒麟がくる第5回放送「伊平次を探せ」ではついに第十三代将軍足利義輝が登場し、さらには国友衆という鉄鋼鍛冶集団も登場してきた。明智光秀は斎藤利政(後の道三)に鉄砲についてもっと調べるように命じられ、鉄砲鍛冶の伊平次という男を探すという内容だった。

鉄砲が最初に渡って来たのは実は種子島ではなかった?!

さて、明智光秀と本能寺はまさに因縁とも言える関係であるわけだが、その明智光秀のドラマの5回目で、その本能寺が早速画面に登場してきた。本能寺とは京にある日蓮宗の寺であり、実は今も昔も商魂たくましい寺院として知られている。現代の本能寺は隣接するホテルを経営しているのだが、戦国時代における本能寺は鉄砲の仲卸業者のようなことをしていたようだ。

火縄銃は天文十二年(1543年)に初めて日本の種子島に渡って来たとされているが、どうやらこれは違うようだ。近年の史家の研究結果によると、どうやら天文十二年以前に朝鮮より日本の複数の湊町に伝えられていたという。ちなみに第4回放送では天文十七年(1548年)頃が描かれているため、劇中では少なくとも鉄砲が伝来して5年以上は経過していることになる。

今も昔も商魂たくましい本能寺

ただ、本格的に鉄砲の複製品が作られ始めたのは種子島であるようで、種子島で作られた鉄砲が本能寺に持ち込まれて売買されていた。本能寺は宗教という隠れ蓑を用い、鉄砲の仲介役を務めていたようだ。現代ではホテル業を営み、戦国の世では鉄砲の仲介業者役を務めていたというわけだ。そのため宗教家集団というよりも、戦国時代では商人としての色が濃かったとも言われている。

ちなみにこの鉄砲の暴発などによって本能寺はよく炎上していたのでは、と考えられることもあるが、それはもちろん間違いだ。本能寺が天正十年(1582年)の前に焼失したのは天文五年(1536年)であり、まだ鉄砲は伝来していないものと思われる。

そして仲介業者としての役割は、本能寺の変が起きた天正十年の時点ではもう終えていたのではないだろうか。その理由は本能寺の変が起こった際、信長は弓や十文字槍で戦ったという記録は残っているのだが、信長側の誰かが鉄砲で応戦したという記録は残っていない。もしなおも種子島と本能寺のパイプが繋がっていたのなら、信長も本能寺に保管されていた鉄砲で応戦していたはずだ。だがこの時点ではすでに近江の国友村など、いくつかの拠点で鉄砲が量産されるようになっていた。そのような背景からも、信長が力を付けたこの頃には本能寺はもう仲介業者としての役割は終えていたと考えられる。

明智光秀と盟友細川藤孝の出会い

さて、今回は細川藤孝も登場してきた。細川藤孝と言えば、今後明智光秀と盟友となっていく存在であり、光秀にとっては最重要人物のひとりとも言える。その藤孝が血気盛んな人物として描かれているが、果たしてこれはどうなのだろうか。明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)を娶った細川藤孝の息子忠興は、血気盛んで短気な人物として知られている。忠興は問題を起こしたとされる家臣の首を斬り、それをガラシャの膝の上に置いたり、ガラシャの世話をしていた女衆の耳を斬ったりしたようだが、その度に藤孝がガラシャに謝り、忠興の愚行を許すように諭していたと記録されている。

それらの愚行は『細川家記』に記されているため、多少誇張されていたとしても、まったくの出鱈目が書かれているわけではないと思われる。細川家からすれば、忠興の愚行は家の恥でしかない。しかしそれでも家記に載せたということは、もしかしたら忠興が神経質になるほどガラシャを必死に守ろうとした、ということを伝えたかったのかもしれない。

そのような史実を踏まえると、細川藤孝は決して息子忠興のような武断派ではなかったと思われる。茶の湯や連歌にも造詣が深かったと伝えられており、戦国時代随一の文化人としても知られている。その人物を武断派として描いたのは、これは完全なるフィクションだと言えるのではないだろうか。ただ、まだ一度だけの登場でしかないため、今後細川藤孝がどのように描かれていくのかは今後の楽しみということになるのだろう。ということで次回の放送では、京の町が再び荒れ模様となるらしい。ただし劇中が天文十七年辺りだとするならば、足利義輝が討たれるのはまだ15年以上先となる。そのため将軍義輝の活躍はもう少し楽しめそうだ。

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斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。この長良川での戦い以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。

明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!

『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。ただし『明智軍記』は本能寺の変から100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。

ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見た土岐家を美濃から追いやった人物だった。その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。

さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。

幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三

長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。

そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。

斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!

斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。

ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。

義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。

道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?

このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。

そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。

確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。だとすれば辻褄も合う。

明智城を守る明智光安の苦悩

こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。

確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。だが今となってはその真実を知るすべはない。

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明智光秀という人物は時に、義理に堅くない武将として語られることがあるが、実際にはそんなことはなかった。義理堅く律儀な人物だったということが、光秀が残している書状などから読み取ることができる。

朝倉家の被官とは言え正式な臣下ではなかった光秀

光秀がなぜ義理堅くない武将として語られるかと言えば、それはひとえに主を次々と変えていったためだろう。順に追っていくと斎藤家、朝倉家、足利家、織田家と転々としている。まず斎藤家に関しては斎藤義龍に明智城を攻められて美濃を追われているため、これは光秀の意志ではない。その後越前の朝倉家に仕官するわけだが、その身分は平社員どころか、契約社員のような一時的なものだった。

その後朝倉家にも籍を置いたまま足利義昭に仕えていくわけだが、これは細川藤孝の推薦によるものであり、決して光秀が朝倉義景を蔑ろにしたわけではなかった。ちなみに足利義昭からすれば、大名家は幕臣であるという考え方があるため、各大名家の家臣は自らの家臣という考えもあったはずだ。

一方朝倉義景からすれば、契約社員1人が掛け持ちで他社で働いていたとしても痛くも痒くもない。そのため光秀は義景からすれば「欲しければあげるよ」という程度の存在だったと言える。

朝倉家と足利家に於いての明智光秀の地位とは

足利義昭の側近として織田家に出入りするようになると、光秀は織田信長に気に入られるようになる。その理由の一つとして、光秀が信長の正室である濃姫の従兄妹だったことも影響していたのだろう。この頃の光秀はまだ正社員と呼べるような地位は手にしていなかった。越前はもう完全に去っていたとしても、足利義昭自身「流浪の将軍」状態であり、家臣をしっかりと養う力を持っていたわけではない。そのような状況だったため、義昭と信長の取次役を務めているうちに、信長から頼まれる仕事の割合が少しずつ増えていった。

そうしているうちに光秀は初めて正式な家臣として織田家に仕えるようになる。光秀は決して、義景や義昭を踏み台にしていったわけではない。朝倉家と足利家では光秀は契約社員程度の身分であり、それを信長が初めて正社員として迎えたのであって、光秀が義理に堅くない人物であったからではなかった。

朝倉家が滅んだ直後に光秀が認めた書状の内容

光秀はよく筆を手にする人物だった。例えば束の間の休暇を取り旅行を楽しむと、親しい友人に向け、今でいう絵葉書のような手紙を書くこともあった。そして知人の体調が優れないと知れば、すぐに見舞いに出向いたり気遣いの手紙を書くこともあった。

光秀はどうやら越前にいた頃、竹という人物に世話になっていたようだ。だが朝倉家は後に織田信長に攻められ滅ぶことになる。朝倉家が滅んだ後、光秀は服部七兵衛尉(はっとりしちへいのじょう)という人物に「朝倉が攻められた際、竹を助けてくれてありがとうございました」という内容の書状を認めている。光秀が本当に薄情な人物だったとすれば、果たしてこのような書状を認めただろうか。

ちなみに戦国時代には、光秀のように二つの家で被官することは決して珍しいことではなかった。また、他家からの引き抜きも日常茶飯事であり、光秀のように仕官先を転々とする武将はどこにでもいた。だが確かにそれが元でいざこざが起こることもあり、戦がなくなった江戸時代には、他家からの引き抜きは幕府によって禁止された。

さて、この巻を読んでもらえれば、明智光秀という人物が決して義理堅くない人物ではなかった、ということがおわかりいただけると思う。朝倉義景や足利義昭を裏切ってきた人物なのだから、織田信長に刃を向けたのも不思議ではない、という考え方は間違いであると筆者は考えている。明智光秀という人物は、実は非常に義理堅い人物だったのだ。

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『麒麟がくる』第4回放送「尾張潜入指令」では、まさに副題の通り明智十兵衛光秀と望月東庵、菊丸が尾張に潜入していく姿が描かれた。このように間者(かんじゃ:スパイ)が敵国に送られることは多々あった戦国時代ではあるが、しかし光秀のような武士が送られることはさすがに稀ではなかっただろうか。

武士が間者として送られることはあったのだろうか?

戦国時代にはいわゆる忍びと呼ばれる忍者たちが活躍していた。その忍びや間者、乱波(らっぱ)が敵国に送られるのが普通であり、光秀のような武士が送られることは、絶対になかったとは言い切れないとは思うが、しかしあったとしても非常に稀だったはずだ。理由は単純で、身分が低くかったとしても城に出入りできるような武士の身分であれば、いつ誰に顔を見られているかわからないからだ。

もちろん若き日の光秀はまだ名など知られてはおらず、他国で光秀の顔を知る者もほとんどいなかったはずだ。しかし品格ある教育を受けている人物が薬草売りに扮したところで自然に振舞うことなど難しい。これは農民に武士の振舞いをされるのと同じだ。そのため武士が間者として他国に送られることは、やはり絶対になかったとは言えないわけだが、しかし可能性としては非常に低かったと思う。送るのであればその道のプロである忍びのような者たちに任せることがほとんどだったはずだ。

流行病で亡くなったとも言われている織田信秀

今回の放送では織田信秀(信長の父)が左肩に受けた流れ矢により傷を負い、そこから体に毒が回り始めているという場面が描かれた。織田信秀の死因は実際には病だとされており、流行病だったとも言われている。今回冒頭で描かれたのは天文17年(1548年)の小豆坂の戦いだったと思うのだが、この戦いで今川家に敗れて以来、信秀は徐々に斎藤・今川という両側からの圧力に押され始めていく。

そこで斎藤家と和睦を結ぶために信長と濃姫の政略結婚が画策されていくわけだが、天文19年(1550年)あたりから信秀は体調を崩すことが多くなっていく。だが劇中では小豆坂の戦いの3ヵ月に信秀は東庵を呼んだ設定になっている。すると史実よりもかなり早く体調を崩していくことになっていくのだろうか。ちなみに信秀が病死するのは天文21年(1552年)3月3日の末森城でだった(享年42)。

だが劇中ではまだ古渡城という、天文17年に廃城になった信長が元服した城にいる設定になっている。この後信秀は末森城に移っていくのだが、末森城が天文17年の何月に完成したのかが筆者にはわからない。小豆坂の戦いが天文17年3月で、信秀と東庵が双六をするのが6月頃だと思われる。となるともう間もなく信秀は末森城に移っていくわけだが、果たしてこの辺りも今後どのように描かれていくのだろうか。

菊丸とは本当にただの百姓なのだろうか?

さて、今回非常に気になったのは織田信秀が家臣に、東庵に薬草を売りに来た商人(十兵衛と菊丸)たちを追わせた場面だ。「怪しければ斬れ」と命じたわけだが、斬り合いになったことで当然怪しいと判断されている。その怪しい2人を城に呼び寄せた東庵は、戦国時代であれば首を刎ねられるか拷問を受けてしまうのではないだろうか。この辺りも今後どう描かれていくのか少し興味がある。

そして斬り合いをしている最中に光秀を助ける謎の軍団が登場したのだが、菊丸はもしかしたら忍びか乱波なのだろうか。乱波だとすればその軍団の実は頭領だったりするのだろうか。ことあるごとに映し出される菊丸の表情を見ていると、ただの百姓ではないように感じたのは筆者だけではなかったと思う。

ちなみに三河の大名となる徳川家康の元には服部半蔵という伊賀の者が仕えていた。だが半蔵が生まれたのは天文11年(1542年)であるため、劇中のこの時点ではまだ6歳程度であり、菊丸が半蔵ではないことだけは確かであろう。しかし菊丸が本当にただの百姓なのか、それとも素性を隠している別者なのかは、今後非常に気になる点ではある。ということで『麒麟がくる』は次週も決して見逃せない。

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『麒麟がくる』の3回目放送「美濃の国」では、斎藤高政(のちの義龍)と明智十兵衛光秀の友情シーンが描かれた。これは恐らくはフィクションという枠に入るのだと思う。まず史実で、高政と十兵衛が共に学び育ったという記録は残されてはいない。そして後々の出来事を考えると、その後々の出来事のドラマを盛り上げるために、今高政と十兵衛を親友のように描いているのかもしれない、と筆者は感じた。

双六はモノポリーではなくバックギャモン?

さて、劇中では双六(すごろく)がよく登場する。医師の望月東庵は近所に住む少女と双六を楽しむのが好きだし、十兵衛は子どもの頃、帰蝶に双六で51戦51敗したという。この双六だが、現代では人生ゲームやモノポリーのようなものを想像するわけだが、戦国時代の双六はそのような形態ではなく、バックギャモンを双六と呼んでいた。

元々は中国に伝わる陣地取りゲームが日本に伝わり、同様にヨーロッパに伝わるとバックギャモンと呼ばれるようになったらしい。なので『麒麟がくる』の劇中で双六の話になったら、それはバックギャモンのことだと思っておくと良いかもしれない。

戦国時代は婚姻と離縁が繰り返されていた

さて、第2回放送では帰蝶の夫である土岐頼純が斎藤利政(のちの道三)によって毒殺された。帰蝶は織田信長の正室として後に濃姫(美濃の姫)と呼ばれ有名になっていくわけだが、どうやら信長に嫁ぐ前は土岐頼純に嫁いでいたと思われているらしい。それを示す決定的な資料が残されているわけではないようなのだが、断片的な資料を繋げていくと、「どうやら帰蝶は土岐頼純に嫁いでいたようだ」というのが史家の見解であるらしい。

ちなみに戦国時代は、婚姻と離縁(離婚)は度々繰り返されることがあった。武家にとっては離縁は決して珍しいことではなく、比較的簡単に行われていた。例えば戦国時代は家臣に力を持たせないように時々国替えと言って、治める土地を変更させられることがあったのだが、国替えが行われると離縁して妻は連れて行かず、国替えした土地でまた新たに妻を娶るということが普通に行われていた。

そして戦国時代の婚姻は単純に政略として利用されることがほとんどで、帰蝶の場合ももちろんそうだった。斎藤利政は土岐家に近付くために娘を頼純に嫁がせた。そして頼純には利用価値がないと見るや否や毒殺し、後年今度は帰蝶を尾張の織田信長に嫁がせている。ちなみにこのように婚姻と離縁が繰り返されていたため、キリスト教のパードレ(宣教師)たちは布教に苦心したようだ。なぜならカトリック法では離婚が禁止されているからだ。

光秀と高政の友情の行方

ネタバレになってしまうため、ここではまだ先々の史実に関しては書けないわけだが、明智十兵衛光秀と斎藤高政の友情は果たしてどのように描かれていくのだろうか。筆者個人の感想としては、光秀と高政が親友のような関係で描かれていることにはかなり意表を突かれた。斎藤利政は幼少期の光秀のことを知っているため(それを示す資料が残されている)、確かに利政の子である高政と光秀が幼馴染だった可能性はある。だがまさかこのように描かれるとは思わなかった。

果たして長良川の戦い以降、この友情がどのように描かれていくのだろうか。ここから史実通りに描いていくのか、それとも更なる驚きの描かれ方がなされていくのか。恐らくは桜が咲く頃にはその辺りのことが劇中に描かれていくのだと思うが、今からそれがどう描かれていくのか、筆者は大いに待ち遠しく思っているのである。

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令和の時代となった今なお、明智光秀という人物を天下の裏切り者と呼ぶ史家は多い。しかし筆者は20年ほど前からそのようには感じていなかった。当時20歳前後だった筆者は、その頃多くの明智光秀に関する本を読んでいたのだが、裏切り者というレッテルの陰に隠れながらも、いくつかの明智光秀の人柄を表す言い伝えを目にした。それを踏まえて明智光秀という人物を考え、裏切り者というレッテルの方にこそ違和感を感じたことを今でもよく覚えている。

明智光秀を逆賊にしたい史家たちの言い分

明智光秀を逆賊に仕立てたい史家の言い分としては、美濃から亡命した明智家を救ってくれた朝倉家を裏切り足利家に仕え、そうかと思えば突然織田家に鞍替えしたという話を持ち出しながら、簡単に人を裏切る人物であると断罪していることが多い。だが本当にそうだろうか。この明智光秀の足跡は、今で言うところの「ヘッドハンティングと転職」とはどう違うのだろうか。筆者には同じものにしか見えない。

転職をした人間は裏切り者であるという考え方は、非常に単一的であり思い込み以外の何物でもないと思う。これが仮に、朝倉家を攻めるために足利家に寝返ったり、足利家を攻めるために織田家に寝返ったというのなら話は別だ。しかし光秀が足利将軍家に仕えていた際に、将軍家と朝倉家が敵対していた事実はない。また、足利家から織田家へと転籍した際も、まだ足利義昭と織田信長の間に目立った大きな火種はなかった。

このように冷静に見ていけば、これは光秀が主家を次々と裏切ったというよりは、功績によりヘッドハンティングされ、立身出世していったと見た方が自然ではないだろうか。もちろん後々、足利家・朝倉家と織田家の間には修復しがたい溝が生じていくわけだが、しかし光秀が転籍した時点ではそうではなかった。だからこその転籍を裏切りと表現することに筆者は大きな違和感を覚えてしまう。

浮かび上がるのは領民に愛された光秀の姿

明智光秀にはその良き人柄を表す言い伝えが多く残っている。まず、とにかく妻熙子を生涯大切にしたと伝えられている。もし自らの欲のためだけに主家を裏切り次々と転籍をしていったのであれば、例えば斎藤道三や松永久秀のように金や権力に憑りつかれていたような人物だったはずだ。だが光秀は生涯を妻を大切にし、さらには領民のことも深く愛した。

実際光秀が治めていた地方には光秀の善政に関する言い伝えが多く残されているようで、本能寺の変後に敗死した光秀を祀る石碑なども多数残されている。もし光秀が本当にただの裏切り者だっとすれば、石碑がそのように多く作られただろうか?いや、そんなことはない。光秀は領民に対し善政を行っていたからこそ彼らに愛され、逆賊として敗死した後でさえこのように愛されたのだ。もし光秀がただの欲深い城持ちというだけだったなら、領民たちも誰も敗死した光秀のためになけなしの銭をはたいて供養塔など祀らなかったはずだ。
(明智光秀に関するガイドブックなどをお読みいただければ、多数ある光秀の首塚の場所を調べることができます)

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

戦国の世という時代背景を鑑みても、若き日の明智光秀は苦労人だったと言える。美濃の内乱に巻き込まれて国を追われ、かなりの年齢になるまでは武家でありながらも極貧の生活を送っていたようで、叔父明智光安や妻の実家である妻木家からの経済的援助なくして家族を養うことはできなかった。妻熙子には多大な苦労をかけ、それを負い目にも感じていただろう。その光秀が妻のため家族のためにととにかく必死に働き、少しでも多くの禄(給料)を得るために転職を重ねていったことは、逆に美談としては見えないだろうか。

(一次資料にも残されているように)時に体を壊しながらも死に物狂いで働いた光秀はどんどん出世していき、時の権力者である織田信長軍団の実質ナンバー2にまで伸し上がった。ようやく家族に楽をさせてあげられるようにもなり、光秀の思いも一入だったのではないだろうか。

果たしてそのような人物であった明智光秀が、自らの野望のためだけに織田信長を討つという盲動に出るだろうか。果たして本能寺の変という出来事を、明智光秀の裏切りという言葉だけで片付けてしまっていいのだろうか。少なくとも筆者はそうは思わない。領民にも慕われ、そして誰よりも家族を愛した光秀なのだ。自らの野望のために本能寺の変を起こしたのではないはずだ。やはり一説にあるように、光秀は何かを守るために本能寺の変を起こしたのだろう。

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『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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2020年1月19日、紆余曲折を経ながらいよいよ始まる『麒麟がくる』。これは言うまでもなく明智光秀の生涯を追った大河ドラマであり、戦国時代のど真ん中を描いた作品となる。では麒麟とは一体何物なのか?劇中、若き明智十兵衛光秀は太平の世になれば麒麟が現れると信じている。麒麟とは中国の伝説上の生き物のこと。

麒麟とは仁のある政治が行われると現れる瑞獣

中国語で「チーリン」と発音する麒麟(きりん)は、体調は5メートルほどで、龍の顔、鹿のような体と角、牛の尾、馬の蹄を持ち、体は黄色く鱗を持つと言われている。中国の古書『礼記(らいき)』には、王が仁のある政治を行うと現れる瑞獣(ずいじゅう)だとされている。

日本や朝鮮半島ではその姿が似ているということもあり、動物園にいる首の長いキリンが、麒麟同様「キリン」という名で呼ばれている。キリンに似た生き物が麒麟となったのではなく、麒麟に似た動物がキリンと呼ばれるようになった。大昔には麒麟にその姿が似ていたことから、キリンが権力者の間で寵愛を受けたということもあったと言う。

人物像が明確に遺されていない明智光秀という人

劇中の十兵衛は辛い境遇に遭いながらも、夢と希望を失わず、麒麟の出現を待ちわびる実直な人物として描かれていくようだ。史実においては明智光秀という人物は、まだ多くの謎に包まれている。明智光秀に関する多くの悪評は、光秀の死後、豊臣秀吉によって捏造されたものであるケースが多い。

『惟任退治記』という、秀吉が光秀を討った際の出来事が書かれたこの本も、秀吉の命によって書かれたものであり、決して真実が語られているわけではない。つまりは小説であり、ノンフィクションではない。信長、秀吉、家康のように、その人柄まで克明に書き遺されている人物とは異なり、明智光秀という人物像を史実通りに描くことはとても難しい。そのため劇中では、新しい光秀像が生み出されるのではないか、という期待も膨らんでくる。

大河ドラマは決してノンフィクションではない

しかし大河ドラマはあくまでもドラマであり、やはりノンフィクションではない。明智憲三郎氏のように、史実のみを追い求める方にとってはきっと不満も募る内容になるのだと思う。もちろん筆者も明智憲三郎氏同様史実を知りたい。しかし今年の大河ドラマに関しては史実のみに捕らわれることなく、ドラマをドラマとして楽しみたいと思う。

とはいえ、楽しみながらも戦国時代記ではドラマと史実の相違点にも注目していきたい。果たして劇中、明智光秀は麒麟を目にすることができるのか、本能寺の変はどのように描かれるのか、そしてどの登場人物が実在し、どの登場人物が架空の人物なのかについてもご紹介していければと思っています。ということで、初回放送が今から待ち遠しい限りです。本当に楽しみですね!

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明智光秀本能寺の変の一連の出来事の後、天海僧正として徳川家康に仕えたという説が唱えられている。しかしこの説の信憑性は低い。明智光秀といえば、当時は織田家・徳川家の人間の多くがその顔を知る有力大名だった。にも関わらず彼らが天海を見て、明智光秀だと誰も気付かなかったというのであれば、これは非常に不自然なことだと言える。また、天海は蘆名一族の武士の出ということもわかっており、土岐氏を源流とする明智光秀と同一人物であると考えることは難しい。

二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う

蘆名氏の祖は三浦義明という人物であり、そのことから蘆名一族は三浦介と名乗っていた。天海はこの一族の中に生まれており、さらに出自そのものは決して高貴ではなかったと伝えられている。つまりは会津の身分の低い武士の家に生まれた、ということだ。生まれたのは天文5年(1536年)だと言われている。そして遷化(せんげ:高僧が亡くなること)したのは寛永20年(1643)と言われており、これが真実だとすれば108年生きたということになる。人間50年と言われていた時代に於いて108年生きたのだから、これは現代で言えば160歳前後まで生きた、という感覚だ。

元亀元年頃(1570年)、35歳になった天海は、18歳の時以来二度目の比叡山に登り学びを得ようとしていた。だが翌年、織田信長が比叡山を焼き討ちにするという事件が起こり、天海は比叡山での居場所を失ってしまった。生き延びた僧の多くは武田信玄の庇護を受け、天海もその一人となる。

天海=光秀説の論拠となった数々の出来事

さて、なぜ天海は明智光秀と同一人物だと言われるようになったのだろうか。この説が周知されていった要因は、明智憲三郎氏の祖父が書かれた『光秀行状記』にあるようだ。この本によってその可能性が伝えられ、謎が多かった光秀と天海を同一視する説が広がっていったらしい。ちなみにその他にも光秀はやはり山崎の戦いでは死なず、関ヶ原の戦い後に溺死したという説も残されているという。だがこれらはあくまでも伝承であるため、信憑性という意味ではやはり低いということになる。

その他にも天海の光秀転生説の論拠となった出来事がいくつかあり、徳川家康と天海が初めて対面した際、家康は珍しく人払いをして天海と二人だけで二刻(現代の1時間)、まるで旧知の間柄のように話を弾ませたと伝えられており、これがまるで家康がかつて知った光秀と話しているようだ、という形で話が広まっていった。そして天海が造営を任された日光東照社(東照宮)には、多くの桔梗紋が使われている。桔梗紋と言えばまさに明智光秀の家紋であり、これも天海=光秀説の論拠の一つとなっている。また、華厳の滝などをよく見渡せる場所の地名を「明智平」と名付けたのも天海だとされている。

さらに言えば比叡山には慶長20年(1615)に寄進された灯籠があるのだが、そこには「願主光秀」と書かれている。これもやはり、光秀は山崎では死ななかったのではないかという推測の論拠となっている。そしてこれに関しては少し強引さも否めないのだが、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の「秀」と、第3代家光の「光」は明智光秀からその字を取ったのではないかとも推論されている。ちなみにその論拠となっているのは、家光と名付けたのが天海であるという直筆の資料が残っているためだ。確かに「光」という字については土岐一族で多く使われている字だが、「秀」に関しては当時は非常に多く使われていた。

不自然な点も多い天海=光秀説

さて、このように天海は光秀が成りすました人物だと言われることもあるわけだが、天海という人物は徳川家康の側に仕えつつも、戦国時代の他の僧侶のように政治に意見をすることはまったくなかったと伝えられている。天海は天台宗の権益拡大に生涯を捧げた人物であり、人柄という面では明智光秀とはまったく違う形で伝えられている人物だ。確かに天海=光秀の論拠路なる話は多数あるわけだが、しかし同一人物として考えるには、その生い立ちには不自然な点が多いことは否めない。

だが可能性として、比叡山が焼き討ちにされる以前より、天海と光秀の間に何らかの面識があった可能性はあるのかもしれない。信長は堕落した僧侶たちを駆逐するために比叡山を焼き討ちにしたわけだが、光秀は天海は決して堕落した僧侶ではないと以前より知っていて、もしかしたら天海は殺すべき僧侶ではないと考えた光秀が天海を比叡山から逃がしたという出来事があったのかもしれない。それを恩に感じていた天海がその後光秀に報いたことで、上述したような論拠が増えていったのかもしれない。だがこれに関しての真実はもはや誰にも知ることはできず、推論の域を出ることも決してない。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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明智光秀は過度のストレスによりノイローゼに陥り、半ば錯乱状態であるかのように思いつきで信長を討った、という説もある。だが筆者はこの説にはあまり信憑性を感じることはできない。そもそも仮に光秀がそんな状態であったならば、斎藤利三や明智秀満と言った側近たちが気付いていないはずがない。もし光秀がノイローゼで側近たちがそれに気付いていたのであれば、普通に考えれば明智家を守るため、命を賭してでも光秀の盲動を防いでいたはずだ。逆に光秀の異常を察知できないような家臣を、側近と呼ぶことなどできるだろうか。

愛宕百韻はあくまでも戦勝祈願のための連歌会だった

あくまでも筆者個人としては、光秀は多少の心労は抱えていたとしても、ノイローゼではなかったと思っている。その論拠となるのは、光秀は頻繁に茶会や歌会を催しているし、戦が小休止している時にはちょっとした旅行に出かけ、旅先から友人に向けて書状を送り、幸せのお裾分けまでしているのだ。つまり光秀はただ辛い戦さの日々を過ごしていただけではなく、茶や連歌、旅を楽しむという余裕も心には持っていたのだ。

もし本当にノイローゼだったら、歌会で丸一日一緒にいる友人たちの誰かは異変を感じ取っていたはずだが、しかし歌会はどれも滞りなく行われていたようだ。唯一誰かが異変を感じたとすれば、それは本能寺の変の三日目に愛宕山の威徳院西坊(いとくいんにしのぼう)で行われたとされる(三日前は晴れ、雨の日に催されたのなら七日前、という説もある)、いわゆる愛宕百韻と呼ばれる歌会でだろう。光秀はこの時の発句(最初の一句目)として「時は今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)哉(かな)」と読んでいる。この句を少し説明すると、時=土岐、天が下=天下、しる=統べる、という意味となり、意訳すると「土岐家が天下を統べる時がやってきた」と解釈することもできなくはない。だが実際に光秀が読んだのは「時は今 雨が下なる 五月哉」だそうです。つまり「統べる」という意味合いは含まれてはおらず、「統べる(しる)」という表現は『惟任退治記』という秀吉が書かせた軍記物で広められた出鱈目だったようです。

ということもあり、上述した句の意味は後付けされたもので、実際には普通に「季節は今は五月、よく雨が降りますね」という梅雨の情景を歌った句でしかなかったようだ。さらに言えば明智憲三郎氏が指摘する通り、「五月哉」と読みつつ六月に信長を討ったことにも違和感がある。そして光秀がこの発句を読むために、わざわざ本能寺の変の三日前にこの歌会を催したとされる説もあるが、そもそも戦国時代当時、歌会というのは戦勝祈願の意味合いが強かった。その証拠にあらゆる出陣の直前に連歌会が催されている。ちなみにこの時の光秀には信長から、中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉の救援に向かえという命令が下されており、まさに中国地方に向けて出陣する直前だった。つまりこのタイミングで連歌会が催されたことは、戦国時代の背景を考えればごく普通のことだったと言える。

光秀の妹の死が信長と光秀を仲違いさせたという説

光秀が精神的に追い込まれていたという説を追うと、やはり出てくる話は光秀の妹に関することだ。実は光秀の妹は信長の側室となっていた。この妹の存在によって信長と光秀の関係は良好に保たれていたと言われている。だが彼女は本能寺の変が起こる前年の8月に死去してしまう。妹の死によって信長と光秀の間には緩衝材のような存在がなくなり、それによって二人が衝突し始める、と考える専門家の方もいるようだが、果たして国を代表するレベルの二人がそのような理由だけで仲違いするものだろうか。しかも光秀は妹の死後も変わらず信長のために激務をこなし続けている。そんな光秀を、果たして側室だった光秀の妹の死を境に急に信長が嫌うようになるだろうか。流石にそんな子供染みたことはしないと思うし、そうしたと考える方が不自然だと思う。

さらにもう一点付け加えておきたいこととして、光秀の妹の死があったとしても、信長と光秀が従兄弟同士ということに変わりはない。信長の正室である帰蝶(濃姫)は光秀とは血の繋がった従兄妹であり、つまりは信長と光秀は義理の従兄弟同士ということになる。この関係がある限りは、光秀の妹の死によって状況が大きく変わることはなかったと筆者には感じられる。

誰にも気付かれなかった光秀のノイローゼ

さて、そもそもノイローゼになっている人というのは、周りから見てもすぐにそれとわかる。ノイローゼだという確信は持てなかったとしても、普通の状態ではない、ということは誰にでも察することができる。それがノイローゼという状態だ。冒頭にも述べた通り本当に光秀がノイローゼだったのならば側近は必ず気付いているだろうし、細川藤孝や吉田兼見といった気心の知れた友人や、連歌仲間たちが気付いたことを日記などに記していたはずだ。そして誰かが気付けば、それは必ず信長の耳にも入ったはずだ。だが誰も光秀の精神状態を心配するような素振りは見せていない。

となるとやはりノイローゼ説は、軍記物(江戸時代に流行った当時の歴史エンタテインメント小説)に書かれたあることないことを鵜呑みにした方が、創作である可能性が高い記述を状況証拠として採用してしまい、「本当にそんな状況だったら普通ならノイローゼになってしまう!」という印象論によって書いたことではなかったのだろうか。そもそも本当に光秀がノイローゼだったならば、深い知見によってアドリブで百句、千句と繋げていく連歌を中心人物としてこなすことなどできなかったはずだ。連歌会に集う人物たちは皆深い知見を持ち、とにかく頭の良い頭脳派の人たちばかりだったのだ。ノイローゼだった人が、そんな彼らと連歌で対等にやり合えたとは到底思えない。以上のようなことから、光秀はノイローゼなどではなかったと、これを筆者個人の意見としてこの巻を締めくくりたい。

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。