明智光秀,南光坊天海


南光坊天海=明智光秀説の論拠となった数々の出来事

分類 明智家 / 神仏
この巻の主な内容

  • 二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う
  • 天海=光秀説の論拠となった数々の出来事
  • 不自然な点も多い天海=光秀説


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明智光秀本能寺の変の一連の出来事の後、天海僧正として徳川家康に仕えたという説が唱えられている。しかしこの説の信憑性は低い。明智光秀といえば、当時は織田家・徳川家の人間の多くがその顔を知る有力大名だった。にも関わらず彼らが天海を見て、明智光秀だと誰も気付かなかったというのであれば、これは非常に不自然なことだと言える。また、天海は蘆名一族の武士の出ということもわかっており、土岐氏を源流とする明智光秀と同一人物であると考えることは難しい。

二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う

蘆名氏の祖は三浦義明という人物であり、そのことから蘆名一族は三浦介と名乗っていた。天海はこの一族の中に生まれており、さらに出自そのものは決して高貴ではなかったと伝えられている。つまりは会津の身分の低い武士の家に生まれた、ということだ。生まれたのは天文5年(1536年)だと言われている。そして遷化(せんげ:高僧が亡くなること)したのは寛永20年(1643)と言われており、これが真実だとすれば108年生きたということになる。人間50年と言われていた時代に於いて108年生きたのだから、これは現代で言えば160歳前後まで生きた、という感覚だ。

元亀元年頃(1570年)、35歳になった天海は、18歳の時以来二度目の比叡山に登り学びを得ようとしていた。だが翌年、織田信長が比叡山を焼き討ちにするという事件が起こり、天海は比叡山での居場所を失ってしまった。生き延びた僧の多くは武田信玄の庇護を受け、天海もその一人となる。

天海=光秀説の論拠となった数々の出来事

さて、なぜ天海は明智光秀と同一人物だと言われるようになったのだろうか。この説が周知されていった要因は、明智憲三郎氏の祖父が書かれた『光秀行状記』にあるようだ。この本によってその可能性が伝えられ、謎が多かった光秀と天海を同一視する説が広がっていったらしい。ちなみにその他にも光秀はやはり山崎の戦いでは死なず、関ヶ原の戦い後に溺死したという説も残されているという。だがこれらはあくまでも伝承であるため、信憑性という意味ではやはり低いということになる。

その他にも天海の光秀転生説の論拠となった出来事がいくつかあり、徳川家康と天海が初めて対面した際、家康は珍しく人払いをして天海と二人だけで二刻(現代の1時間)、まるで旧知の間柄のように話を弾ませたと伝えられており、これがまるで家康がかつて知った光秀と話しているようだ、という形で話が広まっていった。そして天海が造営を任された日光東照社(東照宮)には、多くの桔梗紋が使われている。桔梗紋と言えばまさに明智光秀の家紋であり、これも天海=光秀説の論拠の一つとなっている。また、華厳の滝などをよく見渡せる場所の地名を「明智平」と名付けたのも天海だとされている。

さらに言えば比叡山には慶長20年(1615)に寄進された灯籠があるのだが、そこには「願主光秀」と書かれている。これもやはり、光秀は山崎では死ななかったのではないかという推測の論拠となっている。そしてこれに関しては少し強引さも否めないのだが、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の「秀」と、第3代家光の「光」は明智光秀からその字を取ったのではないかとも推論されている。ちなみにその論拠となっているのは、家光と名付けたのが天海であるという直筆の資料が残っているためだ。確かに「光」という字については土岐一族で多く使われている字だが、「秀」に関しては当時は非常に多く使われていた。

不自然な点も多い天海=光秀説

さて、このように天海は光秀が成りすました人物だと言われることもあるわけだが、天海という人物は徳川家康の側に仕えつつも、戦国時代の他の僧侶のように政治に意見をすることはまったくなかったと伝えられている。天海は天台宗の権益拡大に生涯を捧げた人物であり、人柄という面では明智光秀とはまったく違う形で伝えられている人物だ。確かに天海=光秀の論拠路なる話は多数あるわけだが、しかし同一人物として考えるには、その生い立ちには不自然な点が多いことは否めない。

だが可能性として、比叡山が焼き討ちにされる以前より、天海と光秀の間に何らかの面識があった可能性はあるのかもしれない。信長は堕落した僧侶たちを駆逐するために比叡山を焼き討ちにしたわけだが、光秀は天海は決して堕落した僧侶ではないと以前より知っていて、もしかしたら天海は殺すべき僧侶ではないと考えた光秀が天海を比叡山から逃がしたという出来事があったのかもしれない。それを恩に感じていた天海がその後光秀に報いたことで、上述したような論拠が増えていったのかもしれない。だがこれに関しての真実はもはや誰にも知ることはできず、推論の域を出ることも決してない。



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