黒田長政,関ヶ原の戦い


関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いた黒田長政の知略

分類 関ヶ原の戦い
この巻の主な内容

  • 関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導いたのは黒田長政の知略だった!?
  • 長政の活躍がなければ福島正則も西軍に寝返っていた!?
  • 官兵衛の息子であり、竹中半兵衛に命を救われた黒田長政


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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。

平成29年02月07日 公開

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