織田信長,沢彦宗恩,天下布武


織田信長が使った「天下布武」に込められた本当の意味

分類 神仏 / 織田家 / 足利家
この巻の主な内容

  • 天下布武、岐阜命名は沢彦の助言によるものだった
  • 天下布武とは武力で天下を治める、という意味ではなかった?!
  • 天下布武から天下静謐へ


oda.gif

永禄10年(1567年)11月、この頃初めて織田信長が「天下布武」の朱印を使い始めたとされている。一般的には「武力を以って天下を治める」と理解されているが、しかし実際にはそういう意味ではなかった。この言葉は臨済宗妙心寺派である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が信長に進言したとされているが、しかし実際にそうであったという明確な記録が残っているわけではないようだ。

天下布武、岐阜命名は沢彦の助言によるものだった

沢彦宗恩は、吉法師(幼少時の信長)の守役であった平手政秀と親交があったことから、その平手政秀の推薦により吉法師の教育係に任命された僧侶だった。そして平手政秀が信長の蛮行の責任を取る形で自刃(自刃の理由は諸説あり)を果たした後も、信長の相談役として仕え続けた。天正15年(1587年)に死去したことはわかっているが、しかし生まれた年などの記録はまったく残っておらず、よく名が知られた戦国時代の僧侶であるにも関わらず、非常に謎が多い人物でもある。

一部ではこの沢彦が「天下布武」という言葉を信長に進言したとされているが、実際にそうだったのかはもはや誰にもわからない。だが常時信長の側に仕えていたことは事実であるため、今日ではその可能性が高いと考えられている。ちなみに稲葉山という地名を岐阜に変えた際の助言も沢彦が信長に与えており、この時沢彦は岐阜、岐山、岐陽という三案を伝え、その中から信長が岐阜を選んだとされている。

天下布武とは武力で天下を治める、という意味ではなかった?!

さて、ここからが本題であるわけだが、「天下布武」とは決して武力を以って天下を治めるという意味ではない。ではどういう意味かというと、「足利将軍を中心にし、乱れていた畿内の秩序を取り戻す」という意味となる。天下というのは日本全国ではなく、政の中心地だった畿内のことを指し、武とは武家、つまり足利将軍のことを指している。

この頃の信長は多くの書状に「天下布武」の朱印を使っているわけだが、仮に「武力を持って天下を治める」という意味であったなら、信長はこの朱印を用いることで、全国の大名たちに宣戦布告していた、ということになる。だが実際には宣戦布告として受け取られることはなく、戦国時代では「天下=畿内」「武=足利将軍」という意味はごく一般的な言葉として使われていたようだ。

天下布武から天下静謐へ

信長は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たしている。つまり第13代将軍足利義輝が松永久秀と三好三人衆の陰謀により殺害され、その後義輝の従兄弟である足利義栄が第14代将軍の座に就くも約半年ほどで死去したことにより乱れ切っていた畿内の秩序を、信長はその時に取り戻したということになる。これによって天下布武は達成されたと考えることができる。

そしてあまり知られてはいないが、信長は「天下布武」を成した後は「天下静謐(せいひつ)」を自らの政治的標語としている。天下静謐とは、取り戻した秩序を維持するという意味だ。信長と義昭の関係が良好だった頃は、義昭が政治面での静謐、信長が軍事面で静謐を担う分業制を敷いていた。だが仲違いし義昭を追放した後は、信長は天下静謐を全面的に自らの職責としていく。

最後に一点付け加えておくと、信長は義昭を利用し、義昭も信長を利用していたとよく言われるが、しかしこれは信長と義昭に限った話ではない。室町幕府では将軍家とそれを支える大名家、つまり細川氏や六角氏などは、お互いにお互いを利用し合うことで力を維持してきたという歴史がある。つまり信長と義昭がお互いを利用し合ったことは、当時の将軍家と有力大名の間ではごく自然なことだったということを伝えて、この巻を締めくくることにしたい。



前ノ巻 37年の生涯でたった一度しか教会に行けなかった細川ガラシャ
次ノ巻 南光坊天海=明智光秀説の論拠となった数々の出来事



戦国時代記-Age of SENGOKU-は、Renが個人的に運営している戦国時代をテーマにしたウェブサイトです。 歴史小説のような想像上の出来事はできる限り排除し、極力史実に近いもの、もしくは近いとされることのみを ピックアップし書き連ねていきます。
戦国時代記 -Age of SENGOKU-
Copyright(C) 2016 Age of SENGOKU All Rights Reserved.