織田信長,伴天連,南蛮貿易


織田信長だけが認め、秀吉と家康は認めなかったキリスト教

分類 伴天連 / 織田家
この巻の主な内容

  • 織田信長だけが認め、豊臣秀吉と徳川家康は認めなかったキリスト教
  • なぜ織田信長だけがキリスト教の布教を認めたのか?!
  • 織田信長が興味を示したのは宗教ではなく、宗教とセットだったもの!?


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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。

平成29年02月07日 公開

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