上洛とは


戦国時代の上洛とは一体どのような意味を持っていたのか?

分類 戦国豆知識 / 足利家
この巻の主な内容

  • 各国に派遣された元々は外様だった守護大名たち
  • 上洛とは?
  • 幕府の役割とは?
  • 実は本来世襲制ではなかった守護職


ashikaga.gif

戦国時代のドラマを見ていたり、小説を読んだりすると必ず「上洛」という言葉が出てくるわけだが、果たして上洛とは一体何のために行われていたのか?そして上洛の意味はどこにあったのか?

各国に派遣された元々は外様だった守護大名

上洛について話をする際、まず考えなければならないのは室町幕府についてだろう。室町幕府とはいわゆる足利幕府のことで、戦国時代であれば足利義輝や、室町幕府最後の将軍となった足利義昭などが首長を務めていた幕府のことだ。足利幕府は元来、二十一屋形と呼ばれた各国の守護大名たちと相互関係を結びながら成り立っていた。そして守護大名は本来、洛内(京の都)にいることが義務付けられていた。

守護大名とは足利家の系譜にある人物が、その地を治めるために将軍によって各国に派遣された立場の人物のことだ。そのためその土地とは無縁の者ばかりで、それ故できるだけ早くその土地に馴染もうとし、守護大名たちはその土地の地名を名字に用いることが多かった。このように元々はその土地に所縁のない守護大名だったが、土地を治める年数が長くなるにつれ、その土地の有力者たちの厚い支持を得られるようになって行く。

そうなってくると元々は外様だった守護大名たちも力や経済力を持つようになり、次第に規則を破って洛内を出て下国(げこく:京から自らが守護している国に帰ること)してしまう守護大名が増えていった。そして戦国に世ともなると、洛内になお留まる守護大名はほとんど細川家だけになってしまう。

上洛とは?

将軍家直属の軍隊は1000~2000人程度の規模でしかなかった。この勢力だけではとてもじゃないか謀反や大規模な一揆を抑え込むことなどできない。そのため何か問題が起こると、将軍家は守護大名たちに出陣の要請を出し、それぞれの小規模な軍隊を集結することによって大軍隊を編成していた。だが上述の通り、戦国時代になると洛内に留まっていたのは細川家だけで、足利家は細川家だけを頼らざるを得ない状況に陥っていた。

ただ、その状況は戦国時代に突入する以前から続いており、もし細川家が衰退してしまったら、足利家も滅びの道を辿る運命にあった。それを防ぐために将軍は下国してしまっていた守護大名たちに、幕府に協力するように要請を出していた。その要請に応えて京の都に戻ろうとすることを「上洛」と言った。

では戦国時代において、大名が上洛する利点はどこにあったのだろうか?それは守護職を維持することや、官位を賜ることにあった。幕府から守護職や官位を賜ることにより、大名は幕府という大きな後ろ盾を得られるようになる。守護職=幕府に認められた大名、となるわけで、これによって国衆や有力者などの支持を集めやすくなり、治政も行いやすくなった。過去には守護職を剥奪されて衰退していった大名家もあるため、各国の大名たちはどうしても守護職を失いたくなかったというわけだ。ちなみに武田信玄は甲斐と信濃の守護職を務め、上杉謙信は越後の守護代を務めていた。織田家に関しては尾張守護職である斯波家(三官僚と呼ばれた名家中の名家)の家臣で、ただの奉行でしかなかった。そのため上洛してもなお、武田や上杉などから「田舎大名」と揶揄されることになる。

幕府の役割とは?

さて、幕府の長である足利将軍は一体どのような役割を担っていたのか?「戦国時代の将軍様はお飾りでしかなかった」と言われることもあるが、実際はそんなことはなかった。確かに力を失いつつあったという現実に間違いはないわけだが、しかし将軍の存在意義は戦国時代においても非常に大きかった。だからこそ武田信玄や上杉謙信という超大物であっても、上洛の要請にはしっかりと応じている。

将軍とは、今でいう最高判事のような存在だった。幕府の最大の役割は調停にあり、何か問題が起こると幕府に訴状を提出して裁定を仰ぐというシステムになっていた。つまり幕府とは最高裁判所のような存在だったわけだ。だが力を持った大名たちは問題を自分たちで解決できるようになり、幕府を頼ることも少なくなり、それによって幕府は資金源を失い始め力を失っていたというのが戦国時代においての室町幕府だったようだ。

織田信長が上洛するまでは、経済力を失っていた室町幕府のある京の都は荒れに荒れていた。とても都と呼べるような状況ではなかったわけだが、そこに登場し京の都を再建することによって織田信長はあっという間に幕府の信頼を得ていった。だがこの頃になると頼りの細川家も完全に力を失っており、その細川家はもはや織田の軍門に下っていた。

実は本来世襲制ではなかった守護職

室町幕府最後の将軍となった足利義昭の時代になると、室町幕府を支える家は完全に織田の一強となっていた。そして信長は思いのままに将軍と幕府を利用しようとし、それを嫌った足利義昭が各大名に上洛を求める書状を乱発していった。この義昭の要請により信長は幕府の救世主から朝敵という立場にされ、武田信玄や上杉謙信もその朝敵を討つという大義名分を得て、織田を討つために上洛を目指した。

大義名分という意味では、まだ義昭が将軍になりたての頃、信長は上洛の要請に応じなかった朝倉義景を将軍家に対する謀反者と断罪し、その謀反者を成敗するという大義名分を得ることにより、越前へ侵攻していった。戦国時代において大義名分は非常に重視されており、織田信長でさえも戦を仕掛ける際には必ず大義名分を用意していた。

上洛とはこのように、大義名分として利用されることも戦国時代には多かった。さて、最後にもう一点付け加えておくと、実は守護職というのは元々は世襲制ではなかった。だが長期間にわたり国替えが行われなかったために各守護大名たちが力をつけてしまい、徐々に幕府の手に負えなくなっていった。もし幕府が数年に一度転封(国替え)を実施していたら、室町幕府もまた違った終焉となっていたのだろう。



前ノ巻 麒麟がくる(3)「美濃の国」の史実とフィクション
次ノ巻 惟任退治記(5)本能寺の変



戦国時代記-Age of SENGOKU-は、仁(Ren)が個人的に運営している戦国時代をテーマにしたウェブサイトです。 歴史小説のような想像上の出来事はできる限り排除し、極力史実に近いもの、もしくは近いとされることのみを ピックアップし書き連ねていきます。
戦国時代記 -Age of SENGOKU-
Copyright(C) 2016-2020 Age of SENGOKU All Rights Reserved.