真田幸村,伊達政宗,大坂夏の陣,誉田の戦い


大坂夏の陣での真田幸村と伊達政宗の関係 後篇

分類 伊達家 / 大坂夏の陣 / 徳川家 / 真田家
この巻の主な内容


sanada.gif大坂夏の陣が開戦となる以前に、真田幸村と伊達政宗の間には何らかの密約があった可能性が高い。ではその密約とは?戦国時代に同盟を結ぶ理由は一つしかない。お互いの利害が一致することだ。

真田幸村は父昌幸の代から天敵であった徳川家康を討ち、自らの名を後世に残すことを目的としこの戦いに挑んでいた。一方伊達政宗は未だ野心を捨て切れず、隙あらばと天下を虎視眈々と狙っていた。つまりこの戦いで家康が敗れれば、両者ともに利益があった。

いくつかの資料、書籍でも書かれているように、ふたりはきっと家康を討つための密約を結び、そしてそれが上手くいかなかった時の手筈まで整えていたのだろう。だからこそこの大戦のさなか、幸村は5人の子どもたちをすんなりと政宗の元へ送り届けることができたのだ。

だが作戦は上手くいかなかった。豊臣方は所詮は寄せ集め集団であり、しかもその頂点に立っていた司令官は戦に関しては素人同然の淀殿だった。このような組織が戦上手の徳川軍に勝てるはずがないのだ。だからこそ幸村や又兵衛が善戦を見せても、別の場所ではすぐに豊臣勢は壊滅させられてしまい、幸村は大阪城に戻るしかなくなってしまった。つまりこの時点で幸村と政宗の共闘で家康を討つという作戦があったとしても、ここで破綻したことになる。

先にも述べたように殿を務めた幸村を、政宗は追撃しなかった。政宗の娘婿である松平忠輝は、政宗に加勢し真田を追撃すると申し出たようだが、政宗はそれを断っている。もしかしたら命を落とす可能性が高い殿を務める幸村を、無事大阪城に戻すために政宗は加勢を断ったのかもしれない。だが今となってはその真実は誰にもわからない。

大坂夏の陣では、徳川方は必ずしも一致団結していたわけではなかったようだ。家康のやり方が気に入らない武将も多く存在しており、この戦いでも豊臣方に内通する機会を窺っていた武将も多かったと言う。だが豊臣方が想像以上に脆く崩れてしまったために、将たちは寝返る機会を失ってしまった。

豊臣方は大阪城まで撤退を強いられる状況になってしまったわけだが、前年の大坂冬の陣とはわけが違う。大阪城の防御は大坂冬の陣の停戦協定により根こそぎ取り壊されており、城の防御能力はないに等しかった。冬の陣で徳川方を苦しめた真田丸の存在は、もはや過去の話となっていた。

慶長20年(1615年)5月7日、天王寺の戦いにて幸村は家康本隊を猛攻するも、3000の軍勢では徳川の大軍の前にすぐに力を失ってしまった。この時の猛攻ではさすがの家康も死を覚悟したと伝えられている。真田幸村は最後の最後まで家康を苦しませた。かつては上田合戦で、前年は真田丸で、そしてこの天王寺の戦いでもまた。

しかし数で圧倒された真田隊は善戦を見せるも松平忠直の部隊によってすぐに壊滅させられてしまい、幸村はそこで壮絶な討ち死にを果たして見せた。天王寺の戦いで力尽きるまで刀を振るった幸村だが、それもやはり子どもたちが政宗によって保護されたからこそ、安心して戦えた結果だったのではないだろうか。

大阪冬の陣、夏の陣以前より真田家は徳川家の天敵であり、伊達家は徳川に従属していた。つまり幸村と政宗は立場上では完全なる敵同士だった。だが同じ年齢であるふたりは、何かを切っ掛けにしお互いに興味を持ち、人知れず友情を育んでいたのかもしれない。

それが幸村の死後、政宗の口から語られることはなかったわけだがそれは当然だ。敵である幸村と密約をしていたことがわかれば、政宗もただでは済まされない。家康によって切腹を命じられたかもしれないし、伊達征伐軍を奥州に送られていたかもしれない。だからこそ政宗は固く口を閉ざしたわけだが、閉ざしたからこそ幸村との間に何かがあったと想像する方が自然とは言えないだろうか。

その真実は今となっては誰にもわからないわけだが、ふたりの英傑がこうして繋がっていたと考えることは、歴史好きにとっては大きな浪漫とは言えないだろうか。



平成29年02月07日 公開

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